短編集104(過去作品)
と好きなものに対して友達と話をした時に多治見が言っていた言葉だ。タバコをやめたのは、まさにその言葉通りだった。
「タバコは特別好きだったわけじゃないんだけど、気がついたらいつも吸っていたな。タバコを吸うことで身体に害があるなんて意識をあまり持っていなかったから、絶えず吸っていたんだろうな」
若い間というのは得てして健康には無頓着なものである。世間一般の若者よりも多治見はさらに無頓着な方だったように思う。
「歯医者だってそうじゃないか。本当に痛くて我慢できなくなるまでは行かないじゃないか」
「どうして歯医者だけなんだろうな」
「ハッキリは分からないけど、きっと、器具を使う時の音と、歯医者特有の匂いが痛みを我慢させるんじゃないかな?」
当たらずとも遠からじだと思う。あくまでも多治見一人の意見なので、他の人はまったく違う気持ちかも知れない。しかし、あの匂いだけは、好きな人はいないだろうという思いは強かった。
「抜歯したりすると、血が出るじゃないか。口の中に麻酔を打ってその中で出てくる血を感じるんだからあながち嫌な臭いというのは薬品の匂いだけじゃないかも知れないな」
それも当たらずとも遠からじだと思った理由の一つだった。どちらにしてもあまり思い出したくない匂いである。
それに比べて山で感じた空気の匂いの何とも新鮮なことか。都会の空気がありとあらゆるものを混ぜ合わせたような何とも言えない匂いを漂わせているので、山の空気に匂いなど感じるはずもないと思っていたのに、センセーショナルな思いである。
一度夢の中で匂いを感じたという思いで目を覚ましたことがあった。
何の匂いだったか思い出せないのだが、鼻を突くようなきつい匂いではなかったはずである。
――鼻をくすぐるような匂いだったのかな――
森林の匂いともまた違う。
植物は光合成をするので、人間に必要な酸素を供出してくれることが健康にもよく、独特な匂いが、さらに身体を活性化させてくれることになるに違いない。決して甘い匂いではないが、頭の働きの活性化に役立っていることだろう。
それは匂いだけではない。色にしても同じであろう。
「視力が落ちてくると、遠くの緑を見るようにすればいい」
という話を聞いたことがある。
――そうか、視力を回復させるには緑色がいいんだ――
と感じたものだ。空の青さに伴い、目の中に青い残像が残り、明るい刺激的な色を思い出させ、調和が取れるのかも知れないという勝手な想像であった。
それについての科学的な根拠を調べたことはない。いろいろな文献を探ってみれば分かるのだろうが、そこまで熱心に考えたことはなかった。ただ、事実だけを受け止める気持ちになっていたのだ。
起きてから思い出す夢の中には、その匂いも色もない。実際に夢の中では感じているのかも知れないが、目が覚めると感じていないことになっている。感じたものがすべて夢の中でだけ効果を発するもので、まるで別世界扱いになっているに違いない。
夢の中で感じるものとして時間の感覚もあってないようなものだ。感覚が麻痺していると言っていいかも知れない。色や匂いについても同じと考えるべきか、感覚が麻痺しているというと夢を見ている時にも感じていないように思えることから、感覚が麻痺しているという考え方とは少し違うように思える。
四次元の世界についてテレビドラマや本ではSF小説家などが、いろいろな見解で可能性を示そうとしているが、発想にも限界があるのか、そのすべてがどこか共通しているように思え、奇抜な発想に感じられない。
「四次元の世界の解明は、そのまま夢の世界の解明に繋がるものかも知れませんね」
ある大学の有名な先生がテレビの対談番組で話していた。
――なるほど、四次元と夢の世界は似ているな――
と興味を持って見ていたが、そのどちらにも存在するのが、「パラドックス」という考え方である。
――時間、空間を超越した捩れや逆説――
それが「タイムパラドックス」である。
「『タイムパラドックス』は全宇宙的な考えで、ここであれこれ論じても果てしない全宇宙を解明するのと同じことですよ」
と話していたが、多治見には、
――最後はうまいことはぐらかしたな――
としか思えなかった。だが、論じること自体がおこがましいほど大それたことを不特定多数の前で説いているのだから、最後の締め方には気を遣うのは当然というものではないだろうか。
夢や四次元の世界については、人それぞれ話をしないまでもいろいろな考え方を持っているに違いない。しかし、あくまでも何もないところからの想像。似たり寄ったりかも知れない。
だが、まったく違う発想がないわけでもない。
特に時間や季節、同じ周期のものを考える時、人はどのように感じているだろう。
多治見は十二進数というものに造詣が深かった。時間にしてもすべてが十二の倍数、一年のうちの月も十二である。あまり意識はないが、干支にしても十二という単位ではないか。
時間を感じる時、多治見に限らずにアナログ時計をイメージする人は多いであろう。何も対象がないのだから、例えば、
「今何時?」
と聞いて、
「十時十分です」
と言われると、アナログ時計の針が逆八の字になっているのを自然と想像してしまうのも当然と言えば当然である。
では、三月二十日と聞いてどう感じるであろう。月に関しては人それぞれかも知れないが、多治見はアナログ時計の長針だけを想像し、三と四の間の少し四に近いところを想像する。日にちについては、直線が三つあって、それぞれを十日で区切ったような感覚を感じるのであった。これこそ人それぞれで、日数を月のうちに二つと考える人もいるだろう。
「どこかでメビウスの輪を想像している自分がいるんだな」
多治見はメビウスの輪には興味があった。空間、時間の捩れ、どこにそんなものがあるというのか考えられないが、それを感じたことがある人が少なくとも一人はいるのだと思うと、無視できない気持ちだった。別に物理学者でもない多治見だったが、人が考えることには興味がある。
――同じ人間であって、どんな頭の構造をしているんだろう――
と思っていると、
――彼らがどんな夢を見ていたのか、想像もつかないな――
彼らにだって夢の世界はあったはずだ。今の自分と同じような夢を見ていたのかということに大いに興味をそそられる。
――待てよ――
今同じ時代を生きている人の夢の話もあまり聞いたことがないことに気付いた。気心知れた友達と夢の話で盛り上がったことはあるが、それも同じように夢や四次元に興味を持っている連中との話である。まったく興味を持たない人がどんな夢を見ていて、夢に対してどんな意識があるのかなど、何も分かっていないではないか。
交通事故の夢を見たのはいつだったのだろう。最近見た夢の中で一番鮮明に覚えている夢であるが、昨日だったようにも思える。
夢は目が覚めて意識がハッキリとしてくる間に忘れていくものであるが、あまりいい夢でなければ、その間に落ち着いてきて、
――ああ、夢から覚めてよかった――
と安堵で胸を撫で下ろすものであるが、果たしてその時も安堵で胸を撫で下ろしたように思える。
作品名:短編集104(過去作品) 作家名:森本晃次