短編集104(過去作品)
共有する夢
共有する夢
夢というのはとかく身勝手なものなのかも知れない。自分が見たいものを見れることなど滅多になく、覚めてから、
――見るべくして見た夢だった――
と感じるのは、大抵ロクな夢ではない。一度見た夢を二度と見ることはないだろうと思っていたのに、夢から覚めると、以前にも見たことがあるような気になってしまうことがあるのも不思議なものだ。
精神状態や体調によっても違ってくる。
夢を見る見ないは特に精神状態に関わっているのではないだろうか。目が覚めて身体のだるさを感じる時は、夢を見た後の時が多い。眠っている時間にもよるのだろうが、目が覚める時、必ず夢のクライマックスを迎えているものである。
長い時間見ていた夢だと思っていても、目が覚めてくるにしたがって短く感じられる。夢の内容を忘れていくわけではないのだろうが、次第に色が薄くなり、グレーになって不確かなものに感じられる。
目を瞑ると真っ黒な状態が起きている状態だとすると、夢の中はどこまで行ってもグレーが広がっている。真っ黒な状態の瞼の裏には、電流が走ったあと、クモの巣が張り巡らされたかのように縦横無尽に広がっている。
しかしグレーというのは奥行きを感じることがない。どこまでも続く厚い雲に覆われているようだ。夢を見るということは厚い雲を掻き分けて進むようなものではないだろうか。
最近、多治見誠一が見た夢で一番記憶に残っているのは、交通事故の夢である。
――危ない――
と思った瞬間に目が覚めた気がしたのだが、どこまで夢で見ていたものか。後から考えれば不思議なものである。
大学を卒業し、今の会社に入社して五年、これまでにいろいろなことがあったはずなのに、気がつけばもう五年も経っている。五年も経っているということは、自分の中で理解している年月よりもさらに長かったはずなのに、その間にしたことというと、時系列でハッキリと意識できないでいる。
自分が主導でこなした仕事もあれば、人の補佐をした仕事もある。それぞれの期間が重複していて、時系列で結ぶのが難しくなっているのも事実であろう。
大学時代に友達と登山に出かけたことがあった。
信州の山だったが、登山と言ってもハイキングに毛が生えた程度なので、それほど重装備をしていなかった。
途中のバンガローで休憩を取りながら登っていくのだが、岩場もあれば、平坦な道もあるというなかなか登山の醍醐味を味わえるところであった。
最初が岩場を登りきり、そこから森林地帯を縫うように登っていく、途中から大きな平原が見えてきて、そこからはもう頂上は近くなってくる。
途中で休憩をしながらとは言え、森林地帯を登っている時は、日の光さえも遮断されたところを登っていることもあって、どのあたりに自分がいるのか不安になってくる。
まったく同じところを彷徨っているのではないかという不安を拭い去ることもできず、時折木々の間から漏れてくる光に安心感を覚えたものだ。足元を照らしている光が反射しているが、かなり湿気を帯びた粘土質のところを歩いていることに気付かされる。根っこが縦横無尽に張り巡らされていて歩きにくいのに加えての粘土質は、さらに歩いている者の進行を阻む大きな要因になっているに違いなかった。
――何と時間というものは身勝手なものなのだろう――
と感じたものだ。自覚している時間と、実際の時間との差をこれほどまでに感じたことはなかった、その時間の差が、今までにない恐怖を駆り立てる。たまにしか降り注いでこない日の光が、
――自分には永遠に降り注いでこないものではないだろうか――
という恐怖心に変わり、やっとのこと降り注いでくるのを感じると、まだほんの少ししか移動しておらず、さらには時間が経っていないことへの苛立ちが襲い掛かってくるのだ。
その思いが一気に解放されたのは、大平原に出てきた時だった。
――これは夢ではないだろうか――
と思えるほどのすすきの穂が果てしなく生え揃った平原である。目の前に聳えている小高い山が頂上で、すぐそばに感じられた。
――夢を見ていたのは、さっきまでだったのかも知れない――
身体に当たる日の光を浴びていると、明らかに痛さを感じていた。まさしくその時が意識して痛みを感じていられる瞬間だった。
――生きているってこういうことを言うのかな――
思わず伸びをして深呼吸をしてしまうのも無理のないことだった。新鮮な空気に匂いがあるということを知ったのはその時が初めてだった。
だが、そんな時でも、
――ここから落ちラバどうなるんだろう――
などと最悪のことを考え、身体が宙に浮いているのを想像してしまう自分に恐ろしさを感じていた。
都会にはいろいろな匂いがある。嫌な臭いもあれば、懐かしい匂いもある。嫌な臭いの中に懐かしい匂いがあるのも事実である。
例えばゴムの匂い。小学生の頃、家の近くにケミカル工場があったこともあり、ゴムの匂いに嫌悪感を感じながらも懐かしさがある。
「ゴムの匂いを嗅いでいるとお腹が減ってくるんだ」
小学校の同窓会で友達が話していたっけ。それは多治見も同じだった。
匂いで感じることは他にもある。
雨が降る時などその最たる例で、埃が塵となって水蒸気と一緒に舞い上がるからであろうか、石のような匂いがするのだ。最初こそ、
――なんでこんな匂いがするのだろう――
と訝しがったものだが、考えてみると当たり前に思えてくる。違和感があるのは最初だけで、慣れてくると匂いが自分の中にある予知能力ではないかと感じるほどになっていた。
予知能力など本当にあるとは思えないが、逆に予知能力と呼ばれているものが、結果があれば原因があるように、原因の一旦を見ることで結果が想像できることを予知能力と呼ぶのかも知れない。
「人間は自分の能力の十パーセントほどしか発揮できていない」
と言われるが、残りの九十パーセントはその人それぞれの超能力である。中には自分の能力の二十パーセントを発揮できる人がいても不思議はないだろう。その人たちを「超能力者」と呼ぶのであれば、そこに何ら違和感はないと感じる多治見であった。
都会で感じる匂い、そのほとんどを多治見は嫌いではなかった。人が訝しがる匂いでも、なぜか違和感がなかった。工場からのゴムの匂い、シンナーの匂いまで嫌だと感じなかったのは、後から考えれば怖いものだった。
――中毒になっていたのかも知れないな――
しかしそれでもずっと吸っていないと耐えられないというものではない。シンナーの匂いにはどこか懐かしさを感じるのだった。
大学生になって吸うようになったタバコだが、社会人になる頃にはやめていた。まるで他人事のようだが、それもさしたる苦労をすることなくやめられたのである。もっとも、最初からやめるつもりだったわけではない。やめるつもりでやめたのなら、それなりに苦労したと感じるだろう。タバコは嫌になってやめたのだ。
「俺の場合、好きなものは徹底して続けるからな。やめる時は完全に嫌になってやめることが多いだろうな」
作品名:短編集104(過去作品) 作家名:森本晃次