短編集104(過去作品)
なるほd、考え方はよく分かる。しかし、自分だけが一人帰ったところで、事態が変わるわけではない。四人が三人に減ったところで、対して変わらないではないか。
――それくらいのことが分からないのか――
と言いたいのは、こっちの方だった。
冷静に考えれば、
――自分の子供だけは相手に気を遣う人間でいてほしい――
と願っているというのは分かるのだが、そこまで厳しくしなくてもいいじゃないかというのも心の中にあった。父親のいうほどいつも気を遣っていては、気持ちに余裕がなくなってしまう。
――気を遣っていないように見えて気を遣っているくらいが、ちょうどいいんだ――
と思うようになっていた。
気を遣いすぎて、却って相手に気を遣わせてしまうこともある。お歳暮やお中元などの行事も同じだろう。今でこそそんな風潮は減ってきているんだろうが、同じものをたくさんもらって、使い道に困ることだってある。意を使うことの矛盾を感じずにはいられない。
厳格な父親だったが、気がつけば今の田坂は、その時の父親に似てきたと自分で感じている。
自分に子供ができて、友達の家に遊びに行って、
「今日、友達の家に泊まってくる」
と言えば、どう答えるだろう。言語道断で、
「今すぐ帰って来い」
と言い切ることはできないだろうが、まずは相手の両親のことを考えるのではないだろうか。
きっと遺伝である。すると、父親のあの性格も祖父や祖母から受け継いだものなのかも知れない。受け継がれる性格は、意外とその子供にも受け継がれていくものではないかと思っている田坂にとって、
――ありがたくないものを受け継いでしまった――
と苦笑いしたくなってくる。
そんな父が死んだのは、田坂が大学生の時だった。子供も大学生になり、生活に困るわけではなかったので、それほど家庭に大きな影響はなかった。母は父が死んだことであまる悲しむことはなかった。
――潔い――
と言えなくもないが、少しの間拍子抜けしたように見えていたのも事実である。
母親は、父の生前、厳格な夫に逆らうことはしなかった。しなかったどころか、父親の言い分をそのまままねしていたくらいである。言い分を全面的に信用していたのかどうか分からないが、却ってそんなところが嫌だった。
母親は旧家の生まれだと聞く。お嬢さん育ちで、あまり世間のことも分からない。そんな母親にとって父は力強く導いてくれるという意味ではお似合いのカップルだったのかも知れない。
だが、父の言い分に歯止めを利かせるという意味ではまったく生かされることはない。父の言い分のいい悪いを判断できず、ただ従っているだけで、そんな母に息子が、
「はい、そうですか」
と従うはずもない。父の言い分に対して反発しながらもしたがっていたが、母の言葉にはまったく従う意志を持たなかったのも仕方のないことだった。
そんな父と母だが、馴れ初めは父の方が母を好きになったことから始まるらしい。
これは父方の祖母がまだ生きている頃に聞いた話だった。
「あなたのお父さんというのは、それはそれは血気盛んな青年で、ある意味、まわりの女の子が放っておかないような精悍な男性だったんだよ。まあ、もっともあまり女の子に興味のない男だったんだけどね」
精悍で血気盛んな男性が、女性に興味を持っていないという雰囲気は想像すればできないこともない。おばあさんに話を聞いた時はそこまで感じたかどうか分からないが、父や母のことをまったく知らなかった田坂少年には興味津々だった。
「お母さんというのは、女学校でも成績がよく、お茶やお花といった習い事を結構させられていたようで、落ち着いた雰囲気をいつも醸し出している女性だったので、彼女の方も男の子に人気があったのよ」
母の若い頃の写真など、その頃にはまだ見たことがなかった。と言っても、まだその頃の母は十分に若く、どこかあどけなさを残していたのかも知れない。もしその時に後で発見したアルバムの中にいる若い頃の母の写真を見たとしても、
――落ち着いた雰囲気のお嬢さん――
というイメージは湧いてきても、あどけなさを感じることはなかっただろう。何しろまだ自分は小学生、女性に興味を持つ年齢でもなかったからだ。
「女性に興味のなかったお父さんの初恋だったのかも知れないね。だが、お父さんはお母さんに気持ちを打ち明けることはなかった。まだ男性から女性に告白するなんてことの少なかった時代だから、特にお父さんなど自分のプライドが許さなかったはずなんだよ」
時代がどんな時代だったか分からないが、女の子に男の方から告白するなど考えられないというのは分かる気がしていた。まだ女性に興味のなかった小学生時代は、男が女よりも上だという考えがあったからだ。
「お父さんは大学で、陸上部のキャプテンをしていて、いつも同じところをランニングしていたんじゃ。今の時代からは考えられないが、お母さんは不良と呼ばれてもいい覚悟で、お父さんの姿を喫茶店の窓から眺めていたということを後になって話してくれたんだよ」
女の子が一人で喫茶店に入ることが不良だという認識でいたのは、母だけだったのかも知れない。それだけ母はお嬢さんだったようだ。
喫茶店の窓からいつもお父さんの姿を見ていただけで、話しかけることはなかった。
――そういえば、父が死んでからの母は、よく喫茶店に出かけていたな――
それまで喫茶店はおろか、表に出るのは買い物に出かけるくらいで、寄り道などしたことはなかった。
――一体何が楽しくて生活しているんだろう――
思春期を迎えた男性としては、絶えず何かを夢見ていたい性格に自然となっていた。目標がしっかり定まっていないことへの憤りを感じながら、絶えず何か目標を探し続けている。定期的に刻んでいる時間を一番細かいところまで感じていた時代だったはずなのに、後から思い起こすと、あっという間だったように感じる。時間に対しての感覚が、その時と後からで一番隔たりがある時期だった。
父親の言い分をまるで自分の言い分のように考えていたのは、自分に確固とした意志がなかったからに違いない。表に出かけても寄り道をする術すら知らず、気がつけばまわりに友達の一人もいないという状況になっていたことを知っていたのだろうか。それを自分の運命と受け止め、
――他の人がどうであれ、これが自分の生き方なんだ――
と思っているならまだ幸せだと言える。だが、何も考えず、ただ生きているだけの人生ならば、幸せといえるだろうか。
――知らぬが仏――
こんな言葉は、思春期だった田坂少年の辞書には載っていない。
その二人がどのようにして結ばれたのか、さすがにそこまではよく分からなかったようだ。おばあさんは、どうやら母親からその話を聞いたようで、父親が自分から話すはずがないことは、田坂少年にも分かっていた。
父親にとって母がどんな存在であったか分からないが、それ以後結婚して、現実に自分が生まれたのであるから、それから先は、勝手な想像も許されるかも知れない。
作品名:短編集104(過去作品) 作家名:森本晃次