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短編集104(過去作品)

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 いつもはシックで決して明るいわけではない喫茶「キャンベル」が華やかに彩られる瞬間は、彼女たちが現われる時間帯である。そのほとんどは朝で、モーニングの時間帯だった。休みの日などモーニングを食べに来ることが日課となった田坂は、数人の女性が入れ替わり立ち替わりやってくるのを見かけていた。
 彼女はマスターと話をしているところを見たことはない。いつもテーブルぼ決まった席に座っては表を眺めている。
――表に一体何があるというのだろう――
 田坂ならずとも、彼女が気になる人がいるかも知れない。
 田坂は彼女の行動もさることながら、雰囲気が気になっている。雰囲気が気になるから、彼女の行動が気になるのだ。
 鈍感だと言われるほど、人のことをあまり気にすることのない田坂は、喫茶「キャンベラ」の客だけは気になってしまう。それだけこの場所の雰囲気は独特で、同じ常連客であっても、皆個性豊かな人が多いのだ。
 そんな中でも彼女は特別だった。あるいは、彼女だけが普通で、他の人たちが変わっているのかも知れない。そんなことを感じさせない雰囲気がこの場所にはあり、それが田坂を常連にさせた理由なのかも知れない。
――出会いがあるかも知れない――
 仕事以外では家と会社の往復だけで、途中、出会いがあるような雰囲気ではない。喧騒とした朝夕の通勤時間、その間に気になる人がいるわけでもない。朝は難しい顔をして、完全に戦闘態勢に入っている顔をしている。夕方は戦争が終わって疲れ果てた顔で、そんな時間帯に気になる人を見つけるのは無理であった。
 田坂は女性の性格を顔の表情と雰囲気から判断して、自分の好みかどうかを見極める。通勤時間に冷静な判断ができないのは自分も同じように企業戦士である証拠ではないだろうか。
 彼女を見ていると、一定の特徴があることに気付いた。
 見かけるのは一週間に一度、それも日曜日の昼下がり、決まって三時前くらいから三十分ほど表を見つめている。
 見つめながら頬杖をつき、さらには時々溜息をついている。
 初めて彼女の行動に一定の特徴があることに気付いた時、
――すごい発見だ――
 と、まるで子供のように無邪気な気持ちになれた気がした。他愛もない発見が、気持ちの中で大きな発見に繋がるということを今までに感じたこともあったが、それも決まった法則があった。
 鬱状態から覚めてくる時に感じる感情である。鬱状態から抜けるまでは、誰とも話をしたくなく、自分一人でいる自分を表から見つめることだけが、自分にできる行動だと思っていた。
 見るものすべてが黄色掛かって見え、明るい時間帯はすべて夕焼けか、黄砂が降り注いだように見えるのだ。そんな時間帯は鬱状態でない時は、身体に気だるさを感じ、まさに黄昏た気分になっている。
 かと思えば夜の闇はさらに黒さを増し、それでいて、信号機のようにカラフルな色を放つものには、鮮明な明るさを感じるのだ。それだけ夜の闇に黒さを感じているからに違いない。
 そんな鬱状態の時は、まわりを見たくないと思っている自分がいて、そんな自分に見つめているもう一人の自分に取って変わられていることに気付いている。
 自分の左右に鏡を置くと、永遠に写り続ける自分を見ることができる。
 鏡に写っている自分が、また隣の鏡に写っている。さらに反対の鏡にそれが写り、また反対の鏡に……。
 自分の姿が小さくなりながら、ゼロになることはなく永遠に続くのだ。鬱状態の時に一番感じることであった。
 特に鬱状態の時に多いのは、
――以前にも同じような感覚があった――
 という思いである。
 実際の自分が感じているのか、それとも見つめている自分が客観的に感じるのか分からないが、同時に同じことを感じることのできないジレンマが
――以前にも同じような感覚があった――
 と思わせるに違いない。
 指で自分の胸に字を書いたりするなどという発想は普段なら起こらないだろう。だが鬱状態の時は、何か奇抜な発想をすることがあり、胸に字を書いたりすることがある。
 書いている途中で分からなくなることがある。利き腕である右手で書いていて、右手に神経を集中させている時はしっかり書けるのだが、最後まで手に集中しているわけではない。胸に神経が行ってしまえば、書かれている内容は左右対称であることに気付く。一旦胸に神経が行ってしまえば、急に我に返ってしまう。すると、その段階から指に神経を集中させることが不可能になり、字を書くことができなくなってしまう。
 何度か挑戦してみたが、同じことだった。鬱状態から抜けた後も挑戦したが、結果はだめだった。その時の記憶が以前にも同じ感覚を味わったことを思い出させるが、ダメだった理由は絶対に鬱状態の時とは違っていると思えてならない。だからこそ、以前にも感じたことを追求してみたいと思うのだろう。
 彼女を見ていると、自分の母親に雰囲気が似ていることに気がついた。母親と喫茶店とを同じレベルで考えることなど、今までにはなかった。和服の似合う女性である母親には、コーヒーというよりもお茶の方が似合っているからだ。お茶やお花の免状を持っている母親を尊敬している田坂だった。
 あれはいつだっただろうか。偶然両親が若い頃のアルバムを見つけたことがあった。最近見たような気もするが、実際に見たのはまだ中学の頃だった。その頃の田坂にとって両親は、怖い存在だった。
 絶対的に君臨していた父親の権威に逆らうことはできなかった。友達の家に数人で遊びに行って、
「もう遅くなったから、皆泊まっていけばいいわ」
 と友達のお母さんから言われ、
「じゃあ、家に連絡しますね」
 と言って、皆それぞれ連絡を入れて許可を得ていた。
 しかし、そんな時、必ずと言っていいほど、田坂が家に電話を掛けると、
「何を言っているの。帰ってきなさい。お父さんがお怒りになるわよ」
 という母親の怒号の声が受話器の向こうから響いてくる。それでも何とか説得しようと田坂は試みるが、そのうちに母親は涙声になっている。もう、こうなっては母親の言葉に逆らうことはできない。
「ごめん、やっぱり僕帰ります」
 楽しんでいる皆の祖方を横目に一人帰らされる気持ちは惨め以外の何者でもない。
――なんで僕だけがこんな惨めな思いをしなければいけないんだ――
 暗い夜道にネオンサインが煌いている街を横切っていると、さらに惨めさが増してくる。
「ただいま」
 家に帰ると、なるべく父親とは顔を合わせたくない。平常心でいられるわけがないのを分かっているからだ。だが、そんな時に限って父親に呼び止められて一言皮肉を言われる。
「お前は、いつまで経っても子供だな」
 さすがに惨めな思いに拍車が掛かり、睨みつけずにはいられない。
「なんだその目は」
 そうなってしまっては、取っ組み合いの喧嘩になる。力を込めれば負けない自信があるくせに、容易に投げ飛ばされてそれで終わり。さらに惨めになるだけだった。
「相手のお父さん、お母さんは皆に気を遣ってくださっているんだ。本当はゆっくりしていたいのをお前たちが邪魔しているんだ。それくらいのことが分からんのか」
 というのが、父親の言い分である。
作品名:短編集104(過去作品) 作家名:森本晃次