続編執筆の意義
しかし、それはまるで汚いものを触るかのように、親指と人差し指の間でつまんでいるボロ雑巾のようだ。そんな状態でつままれても、自分が惨めになるだけだ。
そんな中、典子も同じように腫れ物に触るような触り方ではあるが、決して汚いものを触っているのではなかった。弱っているものを、少しでも暖めてあげようとする様子が見られる、まるで飼い主に捨てられた子犬が、雨ざらしの中でビクビク震えている姿を。
「かわいそう」
と言いながら、目は軽蔑の眼差しを上から浴びせているような世間の連中とは違い、典子はそっと抱き寄せて、そのままお風呂で綺麗にしてくれるようなそんな女性だった。
典子と一緒にいると、時々、
――自分の惨めな姿を見て、悦に入っているんじゃないか?
という妄想に駆られることがあった。
何しろ彼女は、自分の人生を順風満帆に過ごしている。そんな彼女が自分のような、
「人生の落後者」
に対して優しくしてくれるのは、
――俺のような惨めな人間を見て、自分がいかに幸せなのかということを感じたいがために一緒にいるのではないか?
などという捻くれた考えを持つのだった。
そんなことなどないことは一番自分が分かっているくせに、どうしてそんな僻みっぽくなってしまうのか、それが悔しかった。
その悔しさを、事もあろうに、本人である典子にぶつけてしまっていた。
典子は坂崎の苦しさを分かるのか、黙って耐えていたが、それがさらに坂崎を孤立されることになった。
しばらくの間、二人はぎこちなくなって、お互いに一人になってしまった。
坂崎はその間、一人で考えていたが、次第に落ち着いてくると、典子のことが気になり始めた。
――いくら自分が苦しんでいるからと言って、典子に当たるなんて、なんてことを俺はしてしまったんだ――
と、後悔の念が襲ってきた。
それまで見ようとしなかった典子の視線を見ると典子は自分を見つめてくれていることに気が付いた。
――どうして気付かなかったんだろう?
その視線は、汚い子犬を風呂で洗ってあげるような視線ではなかった。
――私のことに気付いて――
とでも言いたいのだろうか、その視線は今までにないくらいの熱視線であった。
坂崎もどうして気付いてあげられなかったのか分からず、
――今からでも大丈夫だろうか?
と不安に感じたが、考えるまでもなかった。
明らかに顔色に変化があるのに気付いた典子の方から話しかけてくれた。
会話は差し障りのないものから、次第に親密な話になっていく。しばらくの間ブランクのあったカップルとは思えない。ずっと最初からお互いに気遣い合っているカップルだったという意識である。
紆余曲折があって、やっと結婚を考えたのが、坂崎が二十七歳の時だった。
「俺、全然売れていない作家なんだけど、収入ないので、働いてもらうことになるけど……」
というと、
「分かっているわ」
と、二つ返事だった。
どちらからのプロポーズだったのか忘れてしまったが、お互いに気持ちを言い合った時があったことで、お互いだったのだろう。
結婚してからは、家計を支えてくれるのは、彼女だった。典子は学生時代から坂崎のように作家だけを目指していたわけではないので、地元企業に就職し、普通に収入を得ていた。
坂崎は、そんな彼女の収入を当てにする。そんな生活になった。
途中、そんな立場に屈辱感を感じないわけではなく、分かっているくせに、すねてみたり、喧嘩になったりもした。仕方がないことではあったが、そんな時でも、最後には典子が折れてくれたので、いつもそこで事なきを得たのだが、そんな毎日にも、転機が訪れることもあった。
あれはいつのことだっただろうか? 典子と結婚したのが三年前、あの頃が二十七歳だったので、三十歳になっていた。最初に小説で新人賞を貰ってから、そろそろ十年g経とうかとしていた。短いようで長かった? いや、長いようで短かった十年だったような気がする。前者はこの転機が訪れる直前に感じていたことで、転機を感じてからというもの、後者の方を強く感じるようになった。つまりは、人生の意識を反転させるだけの力を持った転機であったということだ。
これは、坂崎が実際に経験したことで、自分の性格を顧みた時、その発想でミステリーが書ければと考えたことから、思いついたストーリーであった。
場所は、いつも夕方になったら訪れる公園であった。次第に日が長くなってきて、ついこの間まで午後七時というと、まだ明るかったはずなのに、今ではもう六時を過ぎたあたりからまわりは暗くなってくる。
坂崎は夕方という時間に、独特な感覚を持っていた。
坂崎の毎日の生活は、ある程度決まっていた。朝は午前六時に目を覚ます。典子もすでに目を覚ましていて、朝食は典子だけが食べている。最初は一緒に食べていたが、元々目が覚めてからすぐは、食欲どころから気持ち悪さしかない坂崎は、独身時代は、朝食を抜いていた。それを知らない典子だったが、さすがに数か月一緒に暮らしていれば、朝食が坂崎にとって辛いということが分かってきたようで、
「じゃあ、朝は私だけが食べていくね」
ということにしていたが、一緒に起きてから典子が出かけるタイミングで、坂崎も朝の散歩をするようになった。
「運動でもすれば、朝食がおいしいかも知れないわよ」
と言われたのがきっかけだったが、言われてみれば、朝の散歩というのは、小説のアイデアという意味ではいいのかも知れない。
さらに、パソコンを持ち歩けば、途中の喫茶店で執筆作業をすることもできる。せっかく表に出るのだから、ただの散歩だけではもったいないというものだ。
これは今までの悪しきリズムを組みなおすいいチャンスでもあった。
「あなたがうまく行かないのは、いつも同じリズムを繰り返しているからなのかも知れないわよ」
と典子に言われ、
「いや、毎日が同じでないといいアイデアも浮かんでこない気がするんだ」
というと、
「それは違うかも知れないわよ。自分がそう思っているだけで、それは怖っているからなのかも知れないわね」
と、辛辣なことをいう。
結婚してからの典子は、それまでの気を遣った言い方というよりも、どちらかというと、思っていることをズバッと口にするようになった。それまでの気を遣ってくれている感覚が強かっただけに、結婚してからの彼女の言葉には、ショックがあった。
しかしそのショックはいい意味での刺激を与えてくれて、気付かなった何かに気付かせてくれているように思えた。
「朝、一緒に出掛けて、散歩するのも、刺激になるんじゃないかしら? 今まで見たことのない光景を見るのも一つの気分転換であるし、毎日同じことを繰り返していることを、適度に変えていくことも必要であることに気付くかも知れない」
というではないか。
「確かにその通りだね」
と言って、朝の散歩が日課の中に新たに加わった。
――これが、朝の通勤の時間帯なんだ――
学生時代にはこの時間を経験したこともあったはずなのに、今は学生でもなく、社会人でもない。
そんな中途半端な自分を顧みていた。