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続編執筆の意義

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 遺言書のように、死期が迫っている人が、自分が死んだあとのことを書き残すことはあるが、それとはまったく主旨が違っている。遺書というのは、そもそもどういう理由で書くものなのか、坂崎は、
「これから死んでいく自分のこの世への恨みつらみを並び立てるだけのもの」
 という意識しかないのだが、果たしてどうなのだろう?
「先立つ不孝をお許しください」
 などとドラマなどでは遺書に書かれているものを読むシーンもあったりするが、
「許しを請うくらいなら、死ななければいい」
 と相手に思わせるだけの遺書というものに、何の意味があるというのだろう。
 その人に自殺をされて、まわりの人がどう思うか。それを死んでいく人間はそこまで考えるのであろうか?
 通夜や告別式などでは、少しでも自分に関わってくれた人の多くが来てくれて、涙を流してくれるだろうが、それは心の底からの涙なのか、それも不思議である。
「何も死ななくてもいいじゃない。まるで当てつけかこれみよがしのようだわ」
 と感じるのではないだろうか。
 親族などの肉親であれば、悲しんでくれるのだろうが、ひょっとすると、兄弟でも悲しいと思うよりも、
「余計なことをして」
 と思うかも知れない。
 家族といえども、それぞれに事情もあるだろう。家族の一人が自殺などという余計なことをしてと、順風満帆な家族であれば思うかも知れない。もちろん、家族の一人が自殺をしたのだから、ショックは隠しきれないだろうが、こんな思いになるのも、余計なことをしたからだという思いとは紙一重のところにあるのかも知れない。
 自殺というのも、最初からずっと自殺をしようとそのタイミングを計っていた場合もあるだろうし、衝動的に飛び込んでしまう人もいるだろう。遺書というものは後者ではまず考えられないが、考えられるとすれば前者である。しかし前者であっても、一度で自殺に思いきれるとは限らない。手首を切るのでも、いくつもの躊躇い傷を残している人もたくさんいる。
 結局手首を切ることで死にきれなかった人が、確実に死ぬためにはということで、飛び降りや飛び込みをすることになるのだろう。
 そういう例は結構多く、芸能週刊誌なのでよく芸能人の自殺について載っているが、手首で死にきれず、飛び降りをしたというのもいくつかあったような気がした。
 芸能人などは謝罪癖がついているからか、遺書はあるのかも知れない。いや、謝罪文を書きすぎて、遺書を書くだけの気力が残っていないとも考えられるだろう。そう思うと、まずます遺書の意義がどこにあるのか、疑問でしかなかった。
 自殺の原因にはいろいろ考えられるだろう。
 サラリーマンであれば、仕事がうまくいかない。会社で苛めに遭う。ギャンブルであったり、家族が病気などというさまざま理由での借金。死にたくなる理由もたくさんある。
 統計を取った人がいるのかどうなのかは分からないが、動機の種類と、自殺方法とには何か因果家系があるのあろうか。例えばストレスような精神的苦痛であれば、ビルからの飛び降りであったり、借金などを苦にしての自殺であれば、電車に飛び込むなど、自殺を考える人にだって、
「何が楽な死に方なのだろうか? 苦しまずに死にたい」
 という思いがあるはずである。
 死ぬ時に思うのは、
「楽に死にたい」
 という意識であろうか、それとも、
「自分が死んだら、残った家族は?」
 という思いであろうか。
 自分が死んだら、家族が残り、その残った家族に明訳がかかるというのを分かっていても死ぬという意識はどういったものなのだろうか。残る家族を心配するくらいなら、死ななければいいのにと思うのは、普通に考えて、本末転倒に感じるからであろう。
「死んだ気になればなんだってできる」
 と言って、死ぬことを思いとどまらせようとする人がいるが、死を意識するくらいの人は、そんなことは一番最初に考えるものだ。分かっていて死のうとするのだから、そんなありきたりのセリフで自殺を思いとどまるなど。ありえるわけはない。
「残った家族には、俺の生命保険が降りる」
 と言って、金銭的な負担はないと考えるのかも知れないが、そんなことはない。
 いくらの保健なのか分からないが、数千円であったとしても、借金があれば、借金の分でもっていかれる。
 借金がなくても、家族が今までのような何不自由のない暮らしが送れるわけもない。父親がいないということだけでもハンデなのに、自殺した父親の保険金で暮らしていかなければいけないというのは、結構精神的にやられるであろう。
 さらに学費なども併せたら、本当に保険金で賄えるのであろうか。難しい問題である。
 自殺を考えた人が、最後に自殺してしまうというのは、
「いろいろ考えたけど、結局最後は死ぬしかない」
 と思ったからである。
 人が説得しようとしたって、人がいう言葉くらいは、誰だって考える。死を意識していない人間に何を言われても説得力があるはずもない。それでも死を思いとどまったとすれば、やはり最初から死ぬつもりではなく、
「できることなら止めてほしい」
 と最初から思っていたから、死を思いとどまるのだ。
 だから、説得されて死ぬのをやめたわけではなく、
「止めてほしいと思っているところに、うまい具合に止めてくれた」
 というだけのことなのだ。
 それよりも、死を目の前にすると、少しでも楽に死のうと思うのではないだろうか。例えば飛び降りる時、
「コンクリートに直接落ちるよりも、植え込みに落ちた方が楽ではないか」
 と思うのではないだろうか。
 しかし、本当に死を意識しているのであれば、反対に確実に死ねる方を考えるはずだ。下手に中途半端なところに落ちてしまい、死ねなければ、そのまま植物人間になってしまうということを考えると、死にきれなかった時の方が恐ろしいはずである。
 自殺をするのに、薬や手首を切らず、ビルから飛び降りたり、列車に飛び込んだりするのは、一気に死ねる。即死であるということを望んでいるからである。
 手首を切ろうとしても、切り切れずに躊躇い傷が無数に残っている人、さらに睡眠薬を使って死にきれなければ、それこそ中毒になったり、目を覚ますことなく、死にきれずに眠り続けるなどという惨めな結果を招いてしまう。だから、確実な死を選ぶのであろう。
 死についていろいろを考えてみると、まるで自分がこのまま死んでしまうような錯覚に陥ってしまった。
「少し、頭を休めなければ」
 と坂崎が考えた。
 しかし、小説のネタを考えているだけで、これだけ死についてリアルに考えることができ、こんなにもアイデアというか、死に対しての気持ちが次々に閃くというのか、これは今の自分も死というものに正対しているからではないかと思えた。
「死を考えたことがない」
 などというとウソになるが、リアルで考えたことなど、本当にあっただろうか。
 自殺に理由があるのかということを考えていると、さっきまで考えていた。女子トイレの、
「いかなる理由」
 というところの理由という言葉が、文字にすると同じ言葉なのだが、意味を解釈しようとすると、まったく違っているものに感じられるから不思議であった。
 自殺をするのであれば、
作品名:続編執筆の意義 作家名:森本晃次