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続編執筆の意義

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 彼女は手首を切っていて、血まみれの状態で発見されたというが、警察の捜査で、死亡したのはやはり終電少し前だという。身元も分かっていて、近くの会社の事務員で、年齢は三十五歳。その日は九時過ぎまで、会社の飲み会に参加し、二次会には参加せずに、まっすぐ駅に向かったということである。死亡推定時刻にも符号しているので、時間的な矛盾はない。そういう意味で普通の自殺として捜査を行うということだが、坂崎はその記事が気になっていた。
 一番気になったのは、
「遺書が発見されなかった」
 という点である。
 偶然なのかどうなのか、先日読んだ新聞に、この近くではないが、自殺が頻繁に発生している地域があるという。自殺というのは、どこにそんな因果関係があるのか分からない分からない分からないがという前置きの元、どうやら連鎖するものではないかというコラムが書かれていた、
「新聞のコラムなど、面白くもなんともない」
 と思っていた坂崎だったが、その時の記事は何か自分の中で気になってしまっていた。
 さらにその記事は、
「自殺が頻繁に起こる地域というのは、同じ時期に日本で数か所はあるだろう。しかも、そのすべてが同じ時期にピタッとやんで、別の地域に移るというのだ。まるで生き物のようではないか」
 と書かれていた。
 事故が連鎖反応を起こすというのは聞いたことがある。しかし、自殺が連鎖反応を起こすと言われても、坂崎に違和感はなかった。考えてみれば、事故の中で電車などの人身事故というのは、そのほとんどが自殺であり、結局は電車の人身事故が多発したり連鎖反応を起こすのであれば、それは自殺によるものだと考えても、それは十分にありえることである。
 だが、自殺が頻繁に起こる地区が全国にいくつがあり、それが移動することで生き物のように思うというのは面白い発想である。
 そういえば、ある週刊誌に載っていた連載小説の中で、この発想を思わせる小説が掲載されていたのを思い出した。
 自殺菌というものの存在で、それは人から人に伝染し、自殺させてはまた他の人に伝染するというものである。
 だが、この菌は実に弱いもので、集団でなければ、機能を発揮することはできない。だから自殺が多発する地帯があるというのだが、その発想はまさに、
「なるほど」
 と思わせる。
 それが一定の期間猛威を振るい、ある程度の人間を自殺に追いやってしまうと、今度はその地域で人間によって免疫が作られる。免疫があっては金が活躍できる環境がなくなってしまうので、禁はまた別の場所に移動するのだという。まさに生き物、しかも高等生物に該当するものではないだろうか。
 あまり人の小説を読むことのない坂崎だが、ある時無性に読みたくなることがある。それは自分が文章を書くのに勢いを感じなくなった時で、人の小説を読むことでそのアイデアを借用するというわけではなく、執筆の勢いを取り戻したいという思いで読むのだった。
 だから誰の小説であっても構わない。読めればそれでいいのだ。読んだからと言って、自分の筆が本当に進むのかどうかは分からない。しかし、気休め程度にはなるだろう。書けなくなった時は気休めでもいいので、何かをするだけで違うのだ、それが小説を読むというだけのことで、それ以上の深い意味はない。
 自殺菌の話は面白かった。いくらなんでも、そのままソックリ真似るわけにはいかない。真似ると書いて、自分には
「恥じる」
 と読めるような気がしているからだ。
 道義的な問題ではない。自分が嫌なのだ。道義的に言い悪いだけであれば、別に真似ることも少し変えてしまえばいいだけではないかと思ったりもする。
 しかし、人の作品をマネて自分の作品にしたところで、
「俺は一体、何のために小説を書いているんだ?」
 と感じさせられるだけである。
 小説を書くということは、自分オリジナルの作品にするのが、まずは大前提。人のまねをしたり、人のアイデアで売れたとしても、それはリアルに、
「背に腹は代えられない」
 という思いがあったとしても、それは最初の一回だけである。
 しかし、一度楽をしてしまうと、その味が忘れられなくなるのではないだろうか。いくらマネをすることで自分が小説を書く意義を考えさせられるとしても、結局繰り返してしまうのであれば、それは本末転倒。それを思うと、ジレンマが自分を襲い、矛盾に苛まれるに違いなかった。
「そんなことは分かっている。どうしようもないと分かっているのだ」
 と、楽をすると抜けられなくなるその思いは、まるで軽い気持ちで手を出して、抜けられなくなってしまった麻薬のようではないだろうか。
 楽をするというのと、禁断症状による苦痛とでは比較にならないかも知れないが、最初のきっかけは、
「藁にもすがる」
 という思いからだったに違いないが。それが辞め時を見失ってしまうと、抜けられなくなってしまう典型ではないだろうか。
 そういう意味で、普段は小説も読まないが、今回読んだ小説は、今頭の中に描いている着想と微妙に絡み合わせれば、まったく別の今まで自分が想像したこともないような小説ができあがりそうな気がするのだ。
「トイレの七での自殺事件と、自殺多発地帯。そして別の思い出した小説のネタとしての自殺菌という発想」
 それらをミックスするような作品が、今坂崎の中で産声をあげようとしていた。
 いろいろな面白い発想が坂崎の中にも浮かんできた。
 やはり違和感があるのは、
「遺書がなかった」
 ということであろうか。
 そもそも、自殺するのに、遺書などが必要なのだろうか? 自殺をするということは、この世に未練がない。あるいは、この世での居場所が感じられないなどという理由からではないだろうか。
 この世に未練も楽しみもないのであれば、この世に残すものもあろうはずはないと思う。自殺をしようとする人間の心理を考えたことがあまりなかったが、この自殺の記事を見ていて、自殺についての疑問もいくつかあるのに気が付いたのだ。
 今の遺書の話もそうであるが、どうして、靴を揃えて脱いで死ぬのだろう? もっともこれは自殺の方法が飛び降りや飛びこみなどに限定されるのではあるが。
 それをいろいろ考えてみると、自殺をする人の心境が分からない。
 遺書の内容とはいったいどんなものなのだろう? 変死事件があり、警察が赴き、自殺以外に考えられない場面に遭遇すると、捜査員は遺書があれば別に何も疑うことはないが、遺書がないと、
「本当に自殺なのだろうか?」
 と考えるらしい。
 それは一体どういう理屈からなのだろうか。この世に未練がなくて死ぬのだから、遺書を期待するのはおかしい気がする。それはあくまでも死んでいく人の気持ちというよりも、生きている、生きていく人間に対しての配慮という意味でしかない遺書ではないか。あまりにも死んでいった人の気持ちを考えていないと言えるのではないだろうか。
 内容だって、どういうものが遺書なのか分からない。本屋に行っても、
「自殺の際の遺書の書き方」
 などという本が売っているはずもない。
 どうやって、遺書を書けばいいというのだろう。
作品名:続編執筆の意義 作家名:森本晃次