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短編集103(過去作品)

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 あまりジロジロ見ていては、相手に嫌な思いをさせるので、こういう店ではお客さんを凝視してはいけない。しかし、まわりの視線を感じることなどありえないほどに男の目は焦点が合っていない。逆にこちらが凝視していることに気付いてもらいたいくらいであった。
 じっと座り込んでみていたが、
「これください」
 とばかりに取ったのは、小さなアレンジの花かごだった。二千円以上するものであれば、結構いろいろ入っていてカラフルなのだが、その客が買ったのは千円未満のお買い得品であった。安いだけあって、人にあげるにしては少し寂しい。
「ありがとうございます」
 笑顔たっぷりで接客をしたつもりだが、自分でもその客に対しての自分の表情には自信がなかった。
――きっと一人暮らしで、せめて花でも飾ろうと思っているのかしら――
 と彼の生活を勝手に想像していた。
 男が店の表に出て、繁華街のネオンの中に消えていくのを見ると、すぐに理恵はいつもの自分に戻っていくのを感じていた。
 その男が店にいたのは二十分くらいだろう。その間じっと男を見ていたので、二十分が一時間くらいの長さに感じられた。普通ほとんど動かない人を見ていたら、時間の感覚が麻痺してきて、時間を短く感じるのではないかと理恵は思っていたが、実際には逆だったようだ。
 しかし男が店を出て、店内には誰もいなくなると、その男が店内という狭い空間にいたという形跡がまったく感じられなくなっていた。
 確かに目立たないようにしていた男だったが、そういう意識を感じていると却って目立つものである。それなのに、まったく気配が感じられなくなってしまうとはどうしたことだろう。理恵にとって不思議な感覚だった。
 時間にしてもそうである。あれだけ長く感じられたのに、すぐにいつもの感覚に戻りつつある自分をしっかりと感じていたのだ。
――まるで夢を見ているようだわ――
 夢というのもそうである。
 夢を見ている間は、時間が長く感じられるものである。だが、実際は目が覚める数秒間で見てしまうと言われているくらいに、短いものである。それだけ夢の中での時間というのは感覚を麻痺させるものなのだろう。
 夢から現実に戻る時、この時もしっかりと戻っているという意識がある。その間に夢の感覚が麻痺してくるのだが、今度もそんな感じだった。だが、一つ違うのは、現実に戻る時間があっという間だったということだ。そこが起きているところからの意識の復活の違いではないだろうか。
「桜井さん、今日はそろそろ終わりにしましょう」
 その日は日が暮れる頃の時間帯が忙しく、後の時間は暇だったので、時間的にギャップがあった。こういう時は全体的な時間は長く感じられ、普段よりも疲れが溜まっているもののようだ。
 疲れというよりもストレスのようなものかも知れない。
 このアルバイトを始めて、ストレスを感じることはない。明るい性格がストレスを感じさせないようにしているのだろう。それを知っているからこそオーナーは彼女が辞めないだろうことを直感したのかも知れない。
「このアルバイトってね、結構ストレスが溜まるものらしいのよ」
 入って二週間経った時のオーナーとの会話の続きを思い出していた。
「私は感じないですよ」
「この仕事は見た目綺麗で明るい仕事に見えるでしょう」
「ええ」
「あなたもやってみて感じていると思うけど、実際はもっと大変なのよね。だからといって、それをお客さんに見せるわけにはいかない。そのうちに、自分が明るくて清潔な人に見られていることに対して、自分がしている仕事とのギャップがストレスとして溜まることになるのよ。だから最初から明るくて綺麗な仕事だと決め込んで入ってきた人は長続きしないの。それは見ていればすぐに分かるわ」
「私には感じなかったんですか?」
「ええ、あなたにはそれはないと思ったの。あまり几帳面で神経質な人ほど陥りやすいストレスなのかも知れないわ。あなたの最大の魅力はその明るい笑顔にあると私は思っているのよ」
 オーナーは理恵の性格を見抜いているようである。
――笑顔が魅力って言われるのが最高の褒め言葉だわ――
 今まで自分に対して賛美の声をあまり聞いたことのなかった理恵だったので、その時の気持ちはある程度有頂天だった。どんなことであれ、人から褒められて嫌な人などいるわけはない。
 そんなことを思い出しながら、その日は店を閉めるところまで手伝った。
 閉店時間の八時を過ぎてから、店を出るまではあっという間だった。
――それほど開店している時間が長く感じられたものだったのね――
 店にいる間忘れていた最後の客のイメージが歩いているうちにまた戻ってきた。
 理恵の帰り道はさっきの男が後姿を残して消えていった繁華街のネオンを目指して帰ることになる。
――まるで後ろから誰かに見られているようだわ――
 さっきの男の後姿がよみがえってくる。
 その日の夜、理恵は夢を見た。
 真っ暗で湿気を感じる部屋だった。息遣いが聞こえる。男の息遣いである。湿気はその息遣いから来るものかも知れない。淫靡な息遣いである。
 旦那の息遣いとはまた違ったものだった。声のトーンは少し高めだが、息遣いが途切れ途切れに感じられるのはなぜだろう。
 ベッドルームで寝ている横で、男の息遣い。事が終わった後であることは、男の息遣いが途切れ途切れであることから分かるような気がした。
 いつもなら襲ってくる気だるさを感じないことで、それが夢であることを悟った。夢であるからこそ、隣にいる男が旦那でないことにそれほどの意識はない。気だるさはないが、爽快感があるわけではない。満足感もなければ罪悪感もないのだ。
 隣にいる男は誰なのだろう?
 目が慣れてくると、見覚えのある顔だった。それもごく最近見た覚えのある顔である。
――そうだ、今日花屋で見た男ではないか――
 初めて見る顔ではないと花屋にいた時に感じたように思ったが、夢から覚めた時に、
――花屋で、初めて見る顔ではない――
 と感じたと錯覚したのかも知れない。
 普段ならどうでもいいことかも知れないが、その時はそのことが何か自分の中で重大な意味を持つような気がした理恵だった。
 横で寝ている男のことをいろいろ考えていた。
――どんな風に私を抱いたのだろう――
 淫蕩な雰囲気が頭を巡る。身体に密着感は残っている。確かに男に抱かれた感覚があるのだ。
 肝心なところが記憶から欠けているのは、夢の中とはいえ、貫通をしてしまったという罪悪感であろうか。しかし、罪悪感は自分の中にはない。ないからこそ、記憶から欠けているのかも知れない。
 理恵は結婚前にも、男に抱かれる夢を見たことがあった。恵一と知り合う前のことである。
 その頃はそんな夢を見てしまった自分に恥辱を感じたことはない。
――健康な成人女性であれば、それも仕方のないことだ――
 と、意外にドライな考えの持ち主でもあった。
 ある意味、怖いもの知らずだったと言えなくもない。だが、男性と付き合うようになって、自分の身体と気持ちが一致するようになったのも、男に抱かれてからだった。
――心と身体のバランスは、やっぱり男に抱かれることで保たれるものなのね――
 と感じたものだ。
作品名:短編集103(過去作品) 作家名:森本晃次