短編集103(過去作品)
花の種類に関しては、人並みか、いやそれ以上に詳しいつもりでいる。決して迷惑を掛けない自信はあった。接客業も大学の時、喫茶店のアルバイトを経験しているので、それほど心配をしていない。それよりも、花に囲まれての仕事が楽しそうに感じるのだった。
何よりも明るい気持ちになるに違いない。いろいろな色、そしていろいろな香りを感じながらの空間は、きっと一日を充実したものにしてくれるに違いなかった。
もちろん夫には話をしておいた。隠し事がもっとも嫌いな理恵は、夫の公認の下、しっかりと自分の立場を確立しておきたかったのだ。
夫が単身赴任してしばらくは、充実した毎日が待っていた。花屋で働くことがどれほど今の自分に充実感を与えるかというのは、最初に考えていたよりも、さらに充実感の濃いものだった。
――私は、家でじっとしているよりも、表で行動する方が似合っているのかも知れない― ―
元々性格的には静かな方で、行動範囲は狭い方だと思っていた。人の前に立って引っ張ることよりも、人の後ろから自分に与えられたことをこなしている方が自分らしいと思っていた。
――縁の下の力持ち――
こんな言葉が似合っていた。今でもその思いは変わらないが、そのためにはまわりの環境が変わることで、さらに自分を活かせるのだと花屋に勤めるようになって気がついた。
おだてに弱いところもあった。人から褒められるとその気になって自分でも信じられないような発想が出てきたこともある。大学時代など、発想のユニークさでまわりから一目置かれていた時期もあったくらいだ。
人によっては、
「おだてられて発揮する力は本当の力じゃないんだ」
という人もいるが、理恵は決してそうは思わない。
「おだてられようがどうしようが、すべはその人の実力じゃないのかしら。特に自分で発掘できたのであれば、発掘する能力も含めてその人の力だということを素直に認めてあげられると思うの」
と反論した。
大学時代はそんな会話が好きだった。意見をぶつけ合うことでお互いが切磋琢磨し、さらなる成長を試みる。
おだてが本当の力ではないと主張する人は、自分が表に出ないと気がすまない人だった。理恵のように自分が縁の下の力持ちだと自負している人から見れば、何か考え方に余裕がないように思える。そこに柔軟性という意味で奥深さに違いが出るのだろう。
どちらの考えが正しい、正しくないの問題ではない。ただ、お互いの立場から物事を考えることで、見えていなかったものが見えてくるのだ。そんな時間が大学時代の理恵にとってはかけがいのない時間の一つであった。
花屋では、毎日が別世界にいるかのようだった。何といっても、今まで感じたことのない香りの空間である。それぞれの花の匂いであれば、どこかで嗅いだこともあったに違いないが、それが一つの空間で一つになるのだ。無数の香りが入り混じり、人によってはきつい匂いになっているかも知れない。
――アルバイトが長続きしないのはこれが原因だったんだわ――
と今さらながら理恵にも分かってきた。
分かってくると、今度は理恵も匂いに関して少し疑問を感じ始めた。
――でも、慣れてくればきっと最初の感覚に戻るんじゃないかしら――
わけもなくそう考えた。少しでも疑問が湧いてくると、楽天的に考えるのは、理恵のくせであった。
花屋でアルバイトをするようになった理恵は、少しずつ自分が変わってくるのを感じた。昔は柑橘系の香りが好きで、甘い香りはあまり好きではなかった。だが、花屋でアルバイトをするようになると、甘い香りも嫌いではなくなってきたから不思議である。
柑橘系の香り――、今思い出せば、結婚式の時にお互いが好んで演出した匂いだった。
「香りに関しての気持ちが、一番至近距離なのかも知れないね」
恵一は優しく理恵に語り掛けていた。その顔が初々しかったことを覚えている。
明るく真面目な理恵は、花屋のアルバイトを始めて本当によかったと思っている。見た目は綺麗な仕事であるが、実際は思ったよりも重労働で、汚いところもある。それを持ち前の真面目さでこなしていくうちに、オーナーからも一目置かれていた。
勤務を始めて二週間ほどが経った時のことだった。
「桜井さんは本当に真面目なんですね。結構見た目が綺麗なのでアルバイトの応募者は結構いるんですけど、皆長続きしないんですよ。その点、桜井さんは大丈夫そうなので安心していますよ」
「あら、でもまだ初めて二週間程度ですよ。いつ辞めるか分かりませんわよ」
褒められてまんざらでもないくせに、照れくささもあってか、茶化すように答えた。
「でも、長続きしない人はすぐ見れば分かるんですよ。今までにたくさんのアルバイトの方を見てきましたからね」
どれだけの人がこの見せにいたというのだろう。どれだけの人たちをこの花たちは見てきたというのだろう。
真面目ではあるが、それほど几帳面という感じではない。真面目で几帳面だと、これほど明るくはなれないだろうと、勝手に理恵は思っている。なかなかいい性格とされる部分を複数持ち合わせるというのは難しいものだ。いかにうまくバリエーションをつけて、まわりに印象つけるかが大切ではないだろうか。
理恵は無意識ではあるが、真面目な部分と明るい部分を自分の一番印象深い部分としてまわりに植えつけようとしている。それが功を奏しているのが花屋のアルバイトが続いている理由ではないだろうか。
花屋のお客さんは圧倒的に女性が多い。時々、サラリーマンがやってくるが、
「嫁さんの誕生日なんだ」
という人が多い。しっかり覚えているのか、それとも催促されているのか分からないが、きっと覚えている優しい旦那さんなんだろう。そういう男性は見ていても余裕がある。選ぶ姿にもどこか品があって素敵に見えてくる。
だが、ある日訪ねてきた客はどうもそんな雰囲気ではない。
サラリーマン風のその男は、どう見てもみすぼらしく、よれよれのスーツを着ている。着るものに無頓着で、しかも花を見ている姿は背中を丸めて、目を近づけるように見ている。それでいて、どこか迫力を感じないのは、目の焦点が合っていないように見えるからだ。
――心ここにあらずって感じね――
理恵の直感だった。目の前のものを見ているようで見ていないのだから、なかなかこの客が花を買うまでには時間が掛かるに違いない。ひょっとすると見るだけ見て、買わずに帰るかも知れない。
かといって、この手の客にこちらから話しかけるのは愚の骨頂というものだ。下手に話しかければすぐに我には返るだろうが、きっとそのまま踵を返して店を出て行くに違いない。
今までの理恵であればそれでもいいのかも知れない。むしろ、この手の客には早めに帰ってほしいと思ったかも知れない。だが、その時は、
――このお客さんには何かを買ってもらいたい――
と考えていた。本当は自分がアドバイスできればいいのにと思うくらいで、少しじれった気持ちでその男を見つめていた。
作品名:短編集103(過去作品) 作家名:森本晃次