短編集103(過去作品)
と思っていると、注文を取りに彼の席に行った時、机の上にメモ紙が置かれているのに気付いた。それを彼が理恵に手渡すと、下を向いたまま一言、
「コーヒー」
と告げた。その仕草でメモの内容が何となく分かったが、彼としては精一杯の行動だったのだろう。きっといろいろなことを考えて出た結論が、メモを手渡すというシンプルな考えだったに違いない。
――考えがまとまらないと、最後は結局シンプルに纏まるしかないのかも知れないわ――
と感じた。
奥に入って中を見ると、思ったとおりのデートの誘いだった。日時と場所とを書いただけの本当にシンプルなもので、
――もし、私が気が利かずに聞き返したら、どうするつもりだったんだろう――
と、後先のない考えに却って彼の純粋さを感じるのだった。
答えはもちろんオーケーで、理恵もメモ紙に承諾したことを書いて渡したのだが、それを見た時の彼の何とも言えない表情は、満足げな表情というよりも、心底安心したという表情で、今にもその場に崩れてしまいそうに見えて、おかしくなっていた。
もし、彼との結婚を最初に意識したのがいつかと聞かれたら、その時だったと答えるしかないだろう。
逆を言えば、その時ほどの感動をそれから以降、彼に感じたことはなかったということでもある。結婚相手と出会った時のインパクトが強ければ、後で考えると、それ以降があっという間に過ぎてしまったとも言えなくもない。少なくとも、今までの理恵にとって、人生の分岐点の一つであったということは言えるはずである。
結婚までの障害はほとんどなかった。
まわりから少しははんたいされるのではないかと思っていたが、一番の難関であった理恵の父親への紹介にはさすがに気を遣った。
理恵が高校生になるまでの父親は厳格なイメージが強かったからだ。
仕事で遅くなることも多く、母と二人の食事ばかりだったこともあって、あまり父親と話をすることがなかった。話をするというよりも、服装などのことでの小言が多かった。
父親は厳格なものだと思っていたのは、それだけ理恵が真面目な性格だったからだろう。いつも難しい顔をして、帰りが遅くなるのも、自分たちのために一生懸命に働いてくれているからだと思っていたからだ。
「理恵の旦那になるやつは、真面目な青年でなければいけない」
中学の頃に父親が言っていた。深い意味はなかったかも知れないが、それでも頭に残っていた。中学生で結婚のことを考えているはずもないという軽い気持ちがあったのかも知れないが、そのことを父はすっかり忘れていた。
彼を家に連れてきた時にあまりにも緊張している理恵を見て、彼が帰った後に父親が却って恐縮したかのように、
「お前がそんなに緊張してどうするんだ」
「だって、お父さん私が中学の頃に、私のお婿さんになる人は真面目な人でなければいけないって言っていたでしょう?」
「ああ、そんなことを言ったこともあったかな。だが、彼は見るからに真面目そうじゃないか」
「うん」
それ以上は答えなかった。
真面目ということには、理恵に否定はない。だが、父親の望む真面目というのと同じかどうか、少し理恵は不安だった。真面目といっても、朴訥な真面目さは彼に感じるのだが、どこか物足りなさがある。それでも父の前での彼は堂々としていた。
――もっと臆するんじゃないかな――
と思っていたが、取り越し苦労だったようだ。ある意味開き直りだったのかも知れない。
結婚してからの幸福な期間は、きっと今までの人生の中で一番幸福な時期だったに違いない。
結婚式を挙げるまでは、いくら婚約していても、
――本当に結婚できるのかしら――
と半信半疑なところがあった。婚約期間が一番幸せな時期だという人もいるが、理恵はそうではなかった。実際に結婚してしまわないと実感が湧かなかったのだ。
お互いの実家の近くにマンションを借りた。駅から少し遠くはなるが、それでも二LDKで新築となると、自分たちの城という意識が強い。特に彼の方が強かった。
一部屋を彼の部屋にしたのだが、そこは文字通り書斎といってもいいほどの本の量だった。元々本を読んでいる姿ばかりを最初に見ていたので違和感はなかったが、まさかこれほどの本を持っているとは思わなかった。まるで部屋の中が、小さな図書館のようだった。
だが、幸せな時期はそうは続かなかった。彼が転勤を言い渡されたのだ。それほど遠いところではないので、単身赴任をすることになった。結婚して二年が経っていたので、もう新婚という時期は過ぎていたかも知れないが、転勤の話を彼が持って帰った時に、改めて、
――ずっと新婚気分だったんだな――
と感じた理恵だった。
単身赴任と言っても、会社の社宅があり、家賃のほとんどを会社が持ってくれるので、二重生活をするのに、金銭的な苦労はなさそうだった。
「さすがに電車で三時間の距離を毎日通勤するのはきついよな」
駅までそれほど近くないのも引っかかった。ほとんど家にいる時間がないことを考えれば単身赴任も同じである。理恵はかつての父親を思い出していた。
「遅くなって疲れて帰ってくることを思えば、週末ゆっくり帰ってくる方がいいんじゃない。単身赴任でも構わないわよ」
彼の気持ちを察して話したつもりだった。その証拠に彼の顔に安堵の色が見えたが、次の瞬間、寂しそうな顔になったのも見逃さなかった。その顔が理恵にはしばらく忘れられなかった。
――そういえば、以前に彼が単身赴任になる夢を見たことがあったわ――
その時はそれこそ新婚当時で、あまりの幸福感に却って気持ち悪さがあったのか、そのせいで、不吉な夢を見たに違いない。
――新婚当時だから却って気にもならなかったのね――
少しでも兆候があれば気にはなるだろうが、その時は転勤になれば、一緒に引っ越していくつもりでいたので、あまりにも現実離れして新婚という浮き足立った精神状態の中だったので、細かい神経が麻痺していたことも否めない。
単身赴任の日がやってくるにしたがって、冷静になってくる自分に気付いていた。
――どうせ週末には帰ってくるんだわ――
考えてみれば単身赴任といっても、中途半端なものである。
「羨ましいわ。自分の時間ができるんですもの。せっかくだから、何か趣味を持てばいいんじゃないの」
近所の奥さんからそんな話を聞かされた。
「今さら趣味と言ってもね」
と軽く笑ってすませたが、まだ子供がいるわけではない。趣味でもないと寂しいかも知れない。いや、寂しいというよりも、やることがない一日がどれほど長いかを考えれば、本当に笑い事ではない。
お金の掛かることはできるわけではない。社宅があるといっても二重生活だ。ちょうどその時、近くの花屋さんで、パートを募集していた。
時間的にもそれほど長いわけではない。花屋さんの奥さんとはよくスーパーで一緒になることもあって話しを聞いていたので、
「あまりお花にくわしくないけど、私でもいいかしら」
と話をすると、
「ええ、構わないわよ。徐々に覚えていってくれればそれでいいんだから」
奥さんの話では、アルバイトに来る人は多いのだけど、どうも長続きしないらしい。最初はそれがどうしてか分からなかった。
作品名:短編集103(過去作品) 作家名:森本晃次