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短編集103(過去作品)

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 それまでは、ずっとホテルだったこともあって、和風の部屋で愛し合うことは一度もなかった。直樹自身、かつていろいろな女性を抱いたが、和風の部屋で抱いた女性は一人だけだった。
 その女性は処女だった。部屋に入るまで、抗うこともなく素知らぬ顔でついてきて、裸になることもそれほど厭わなかった女性なので、まさか処女だとは思わなかった。
 逆に考えれば処女だから恥ずかしげもなく裸になることができたと言えるのではないだろうか。そのことを知ったのは、彼女の大切な部分に指が触れた瞬間だった。
 一瞬ビクンとしたが、明らかに本能からの敏感な反応だった。普通であれば、それからは快感に身体を任せるためのステップだと思っていたのに、その時の彼女は、しばし身体を硬くしたまま、柔らかくしなろうとはしなかった。
「君は、初めてなんだね?」
 と聞くと、顔を上げることなくただゆっくりと頷いた彼女がいとおしく感じられた。
 その時に感じた匂い、あれは何と言えばいいのだろう。普段に感じる女性の淫靡な香りとは一味違う。嫌な匂いではないのだが、
――これが女性の匂いなのだろうか――
 と、一瞬考えさせられてしまいそうな香りであった。ゆっくりと愛撫することで彼女の身体と心を開かせ、未開の地へ入り込んだ瞬間、またしても匂いが漂った。
 鉄分を含んだような匂いに、汗が滲んでいる。これは明らかに気持ちのいい匂いではないが、淫靡な匂いではあった。
――これが処女でなくなった時の女の匂いか――
 と感じた。和風の部屋で感じる淫靡な想像は、その匂いを思い出させる。だが、同時に彼女に最初に感じた匂い、これもどこかで思い出させた。
 千鳥は新婚旅行では処女ではなかった。それは分かっていた。婚前交渉など今の時代では当たり前で、それまでに何度も抱いていたから新婚旅行での夜がそれほど神聖なものであるとも感じていなかった。
 だが、和風の部屋での二人は明らかに初夜だった。処女に感じた匂いを思い出すことができたのは最初から計算していたわけではないが、直樹にとって願ったり叶ったりであった。
 直樹はその時のことを思い出しながら、Kホテルに泊まる前日に千鳥を抱いた。
 いつもの夜なのに、どこか違う感覚があるのは、その日、直樹の体調が悪いからかも知れない。
 少し熱っぽいことで、何となくぼやけた頭が、何かを一生懸命に探しているように思える。思い出そうとしているのだが、
――思い出してはいけない――
 ともう一人の自分が話しかけてくる。
 熱っぽい時に、もう一人どこかに自分がいるのを感じることは今までにもあった。
 特に眠っている時に多く、夢を見ている時は得てして怖い夢を見ていたものだ。どうして怖い夢かというと、夢の中でもう一人の自分の存在をはっきりと感じることができるからで、しかもそのことを意識していると、もう一人の自分が夢を見ている自分に襲い掛かってくるのだ。
 もう一人の自分の存在を夢に見ることは熱っぽい時以外でもある。その時は目が覚めるまで、もう一人の存在を相手に決して悟られることはない。だから怖い夢ではないのだ。
 熱っぽい時、千鳥の夢を見ることもある。
 それはいつも同じ夢で、千鳥が自分と結婚する前の彼女を夢に見る。
――どうして今さら――
 と思うのだが、お互いにトラウマになってしまっているのではないかと思い、何とかしなければと考えるが、夢の世界ではどうすることもできない。熱っぽい時の夢なので、うなされることもある。
「あなた大丈夫?」
 と額の汗を拭ってくれている千鳥の顔が目を覚ました瞬間に飛び込んでくるのを見て、思わずハッとすることが何度かあったが、その表情の理由を千鳥は知らないことを願うばかりである。
 直樹の大学時代の友達で、斉藤というやつがいるが、彼とは今でも付き合いがある。
 彼はまだ独身である。
「三十歳を過ぎてからでも結婚は遅くないさ。下手に今結婚するのも中途半端というものだろうな」
 と話していた。
 出会いはいくらでも転がっている。焦ることはない。だが、彼の場合は少し違い、まだまだ遊んでいたいという性格だった。
 女遊びに余念がないやつで、決していい影響を受けることばかりではないはずなのに、どうしてこれほど長い付き合いなのか分からない。どちらかというと真面目で、あまりは目を外す勇気のない直樹にとって、斉藤が眩しく見えることがあるのだ。
「俺だって、そんなに勇気のある方じゃないさ。逆に結婚する勇気のない情けない男なのかも知れないぞ」
 と嘯いているが、その言葉はまんざらでもないのかも知れない。直樹と千鳥を見る目に羨ましさでうっとりしているように思えることがあるからだ。
 千鳥も斉藤のことを知っている。
「私はあまりあの人、好きになれないわ」
 と話していたので、家に連れてくることはない。もっとも斉藤以外の知り合いを家に連れてくることも稀で、それほど親交の深い人がいない証拠でもあった。
 直樹と千鳥が結婚することに対しても、まわりの反応は冷ややかだった。
 二人が結婚する少し前に、やはり同僚同士の結婚があったのだが、その時は結構まわりが冷やかしたものだ。二人とも賑やかな性格で、
「あの二人はそのうちに一緒になるだろう」
 という噂が飛び交ったこともあったくらいだ。
 それに比べて直樹と千鳥の間にそんな噂はなかった。直樹も千鳥も会社ではあまり目立つ方ではなく、二人とも一人でいるのが多い方だった。特に千鳥は自分から気配を消しているような雰囲気があり、そのことは誰の目から見ても明らかだったことだろう。
 直樹に関してはそこまでなかったが、あまりお酒を呑むことがなかったので、同僚の間での付き合いも少ない方だった。
「お先に」
 と言って、皆が帰ったあとに、一人で残業することも少なくなく、
――俺って仕事がなかなか捌けないからな――
 と溜息をつきながら、
「お疲れ様」
 とアフターファイブを楽しむ連中を恨めしげに見送ったものだ。
 しかし、定時を過ぎてからの時間というのは、定時までの時間に比べると、あっという間である。気がつけば八時を過ぎていたなどということはざらにあった。だが、一日の仕事が一段落して帰途につくと、むしろ定時までの方があっという間だったように思える。
 夢を見ている感覚と似ているようだ。
 夢を見ていると、夢の中であれほど長かったと思っていても、目が覚めてしまうとあっという間だったように思えてくる。目が覚めてきて、意識がしっかりしてくるうちに、夢が次第にぼやけてくるものなのかも知れない。
――夢と現実の間には越えられない何かがある――
 と思えてくるのも仕方のないことだ。
 そういえば、最近夢を見たという記憶があまりない。
 夢というと現実離れした夢を昔は見ていたように思う。不思議なことにそんな現実離れの夢を多く見ていた時期がいつだったのか、ハッキリとしない。
――大学時代だったんだろうか? いや、小学生の頃だったのかも知れないな――
 と頭の中で整理できない。
作品名:短編集103(過去作品) 作家名:森本晃次