主犯と共演者の一致
そんな先代の大曾根社長は、会社を大きくしながら、他の事業にも少しずつ手を広げていった。特に、ネットの世界ではその手腕をいかんなく発揮し、乱立する情報をどのように分析するかということに力を入れた。そのおかげで、製薬会社の方も、
「未曽有の巨大企業」
とも言われていたほどになった。
病院とのネットによる情報交換にも力を入れ、市場のほとんどを掌握していたのだった。
そんな会社なので、少々のことで潰れることもなく、優秀な人材もどんどん入ってくる。先代社長としても、ある程度大曾根王国を盤石な形にするまでには至った状態で、二代目である恭三にその職を継がせることができた。
初代社長は会長になり、次期社長には当然のように恭三が就任した。
その時の恭三は年齢として四十二歳だった。まだまだ若いとも言われたが、すでに会社では十年の仕事歴があり、一介の現場社員から、重役へと出世していっての社長就任、そこまでの彼の業績もまずまずのものがあり、ただの世襲による社長交代というだけではなかった。
大曾根製薬は、国内ではすでに群を抜くほどの大企業となっており、合併した会社も、今まで弱かった元々の大曾根製薬の部分を補って余りあるほどのシェアを持っていた。恭三の社長就任は、順風満帆だったのだ、
二代目大曾根社長が誕生したのが、今から三年前だった。さすがに最初の一年はなかなか社員とのコミュニケーションがうまくいkず、苦労もあった。確かにずっと会社に所属していた人ではあるが、その彼とすれば、今までは、
「社長の影に隠れたナンバーツー」
という存在だったものが、今度は、
「自分こそが会社の代表だ」
となるわけだ。
どのように社員と接していいのか、彼とすれば遠慮があり、当然難しい部分も多かった。
上司がそうなのだから、部下がなかなか従えないのも無理のないことである。お互いの遠慮がぎこちなさを生んで、最初の一年は、少し業績が横ばいだった。
しかし、それくらいで崩れるようなやわな会社ではない。二年目以降は、何かに吹っ切れたように経営手腕を発揮し始めた彼は、初代社長とは違った力を発揮し、その影響は会社内以外にも波及していった。
彼が最初に目を付けたのが、広告業界への接触だった。
以前は、テレビCMなどによる宣伝広告は大きなもので、民放褒章局や新聞社、雑誌社のようなマスコミ関係は、宣伝広告費が命だったのだが、そのうちに、
「有料放送」
なる方式の放送が多くなり、視聴者が月いくらという契約で、好きなチャンネルを選択できるという方法が増えてきた。
「野球が最後まで見られない」
「野球のせいでドラマが後ろにずれ込む」
などという問題が昔からあった。
それは、それぞれに専門チャンネルがなかったからで、かつての放送能力に限界があったのでしょうがないことであったが、そうなると、民放というのは、お金を出してもらっているスポンサーの言いなりである。そこに付け込んだのが、専門チャンネルの誕生であるが、野球でも試合終了まで行うという宣伝で、しかも、チャンネルが増えてくると、自分の贔屓チームを、年間すべての試合、試合開始前の練習から、試合終了後のセレモニーまですべてを見せるという宣伝もできるようになる。何しろそのチームのファンのためのチャンネルなのだがら、どんなに贔屓した内容を放送しようとも、やりすぎには当たらない。それがファンにとってもありがたいもので、契約する人も、
「月間千円未満で見れるのであれば、安いものだ」
と言えるであろう。
しかも、スポーツとドラマ、音楽番組などをセットで月間恵沢などというセット価格もあり、いわゆる専用チャンネルの時代となってきたのだった。
そんな時代になってくると、宣伝広告を出して、民放で番組を作ろうとするところも減ってくるだろう。
そもそも、
「コマーシャルが多い」
ということは、ずっと昔から言われていたことで、ビデオの時代から、その装置に、
「CMカッと」
などという装置がついていた機種もあったほどだった。
そういう意味で宣伝広告は次第に下火になるかと思われたが、それを救ったのがネットの世界だった。
ネットではSNSと言われるネットワークによる、情報発信のサイトが増えてきた。しかも最近では個人単位で、手軽に情報発信ができ、そこでお金が動くようになる。そうなるといろいろなSNSの運営会社が出てきて、その収入に広告収入がまたしてもクローズアップされるようになった。
テレビから離れてからネットにいくまでの間はそれほど期間が立っていたわけではなかったが、それだけに、しばらくの間は、情報に疎かったり、なかなか頭の固い経営陣の判断からテレビにしがみついていた人が多い中、時代はあっという間に流れていき、SNSはそのために、最初はうまく機能していなかった。
だが、逆に言えば、その時代に先見の明を打って、SNSに目を付けた人がいるとすれば、その人はパイオニアとして祀りたてられるだけの力があるということになるだろう。
その才能を持っていたのが、二代目社長である大曾根恭三だったのだ。
彼のその素質は、先代に仕えていた参謀ともいうべき顧問の先生によって開拓されたものであったが、実は生まれつきの才能もあったのだろう。顧問の先生が驚く歩との発想を示したこともあったくらいで、それが会社の業績を伸ばすのに役立ったことは、重役時代から誰もが周知のことだった。
宣伝広告で手に入れた名誉によって彼は一時期時の人となった。だが、彼はあまりマスコミに出るようなことのない人物で、自分が宣伝塔になることはしなかった。
その分、プライベートを大切にするタイプで、社員に対しても、
「仕事とプライベートをうまくコントロールできる社員になってほしい」
と常々言っていた。
これは先代社長にも言えることだったので、誰も驚きはしなかった。むしろ、時代の先端を行っているという感覚で、
「いわゆる働き方改革を地て行っているような人だ」
という話が伝わっていた。
彼は、別に聖人君子というわけではない。
「英雄色を好む」
とよく言われるが、まさにその通りで、彼には不倫をしている女がいた、
それも一人ではなく、数人である。もちろん、ほとんどが肉体関係のある女性ばかりで、肉体と精神に癒しを求めていたのだが、一人だけ肉体関係のない女性がいた。それが、今回の被害者である、岡崎静香だったというわけだ、
彼女を抱こうとしなかったのは、身体の相性が合わないというだけではなく、抱いてしまうと自分が抜けられなくなるような気がしてそれが怖かった。
「浮気はあくまでも浮気」
これが彼の信条であり、当然、不倫でここまで先代が築き上げてきた大曾根王国を滅亡させるだけのことができるはずもない。
彼にとって静香というのは、
「母親のような癒しを貰える女性」
であった。
まるで聖母マリアのように見えたのであろう。肉体的には男の奴隷のようになっているが、精神的には癒しを求めるその感情が、大曾根恭三という人間の感情を揺さぶるのだった。
大曾根恭三にとって、岡崎静香という女性は自分の女性としての好みというわけではない。