短編集102(過去作品)
掻き立てる異臭
掻き立てる異臭
宮下満子は自分に酔っていた。ベッドの中で森川に抱かれながら、こみ上げてくる快感に身体を震わせながら、カッと見開いた目は、虚空ではありながら、一点をしっかりと見つめていた。
森川と知り合ったのは今から半年前、取引先の営業マンとして事務所に現われたのが最初だった。
森川は最初から事務所を見る目は女性しか見ていなかった。プレイボーイであることは雰囲気から察することができた。本来ならそんな男性に対し、そう簡単に心を許すはずのない満子だったが、目が合った瞬間に森川の方が満子を見初めたのだった。
「僕はあまり一目惚れするタイプじゃないんだけど、君と目が合った瞬間はさすがに自分でもビックリしたよ」
と初めてデートした時に言われた。
「そう? 他の女性皆に言ってるんじゃないんですか?」
と皮肉を込めて言ったが、そう言われるのには慣れているのか。
「そんなことはないさ。これでも君をデートに誘うのに、何て切り出していいか迷ったものなんだよ」
確かに戸惑いを見せていたのは確かだろう。満子も森川の態度を見ていて、それなりに警戒している素振りを見せていたのだからそれを察知したに違いない。だが、それを察知できるということは、逆に彼が女性に声を掛けることに慣れているということの裏返しでもあった。
だが、それが知り合う時だけだと感じたのは、最初だけだった。すぐに彼が落ち着いた雰囲気の男性であることに気付いていた。いや、それは最初から分かっていたことかも知れない。それは満子の予感というものではなく、必然的なものであったのだ。
満子の会社はあまり大きな会社とは言えないが、それでも事務所に女性事務員は十名近くはいる。その中で満子が選ばれたのは偶然なのか、それとも最初に目が合った瞬間に他の人が見えなくなったのか本当のところは分からない。だが、後で考えれば、必然だったように思うのはデートでの違和感がなかったからだろう。
「ずっと前から知り合いだったような気がするな」
ホテルのディナーというデートコースのクライマックスで、夜景を見ながら森川が呟いた。男性にとっては殺し文句の一つで、女性によっては、その言葉だけで参ってしまうこともあるだろう。それまでの雰囲気がよかっただけに、満子もその場の雰囲気に飲み込まれたように、森川の言葉を聞いていた。
森川は紳士である。
初めてのデートでいきなり身体を求めてくるようなことは決してなかった。もっとも満子にしてもその日に身体を求められれば、感情は一気に冷めていたかも知れない。
満子は今年で三十歳になる。女としてはそろそろ「行き遅れ」と言われる歳になってきているのだろうが、それほど気にしていない。
高校の頃までは田舎で暮らしていたが、短大入学とともに都会に出てきた満子に対し、母親はかなり気にしているようだった。
短大を卒業して都会の会社に入ると言った時に、一番反対したのは母親だった。
「田舎に帰ってきて、早く結婚してほしいのよ」
と言われたものだ。
「都会での女性の一人暮らしは、それは大変なものなのよ。ご近所の人を見なさい。都会に出て行った娘さんたちは、皆二十五歳くらいまでに帰ってきているでしょう。きっといろいろなことがあったんだと思うのよ。あなたにはそんな思いをさせたくないの。お母さんの気持ちも分かるでしょう?」
と、諭すというよりも訴える姿は切実に見える。
だが、満子は都会での生活以外は考えられなかった。恋人がいたわけではないが、これからの自分の未来を考える時、田舎の風景はもはや浮かんでこない。田舎の風景は満子の中では過去のものになってしまっていた。
母親の言うことも分からなくはない。
確かに田舎にいた頃の高校時代、近所に住んでいた年上のお姉さんたちが都会に出て行って数年して帰ってくるのを見てきている。都会の生活の何たるかなど分かるはずもなく、
――長くいれるところではないのかも知れないわ――
と漠然と感じていた。
感じていたはずなのに、実際に都会に出てくると、もう田舎の生活は眼中にはなくなっている。それが都会の魅力によるものではなく、どちらかというと魔力に近いものであることを、本能として満子は悟っていた。
ずっと都会に住んでいる人には分からないだろう。いきなり田舎から出てきてすぐは、なるべく田舎から出てきたことを隠そうとしていた自分がいた。だが、隠そうとしても生まれつきの訛りや田舎臭さが消えるわけもなく、隠そうとすればするほどボロが出る。今でも本能的に田舎者だと思われたくないと感じた時に、却って訛ってしまったりするものだ。人間の意識というのは実に面白く、厄介なものである。
田舎者と思われたくない満子がいつも心がけていることは、
――焦っては禁物だ――
ということだ。隠そうとすることも焦っている証拠、かといって、何もかも正直に見せようとするのも田舎者の特徴でもある。なかなか難しいものだ。
だが、自分の身体を安売りはできない。今までに経験がないわけではないが、最初は田舎にいる時のことで、それは今から思えば満子にとって、人生最大の汚点に近いものであった。
――どうでもいいような相手だったわ――
朴訥でいかにも田舎者を思わせる男だった。きっと都会に出てきたとしても、彼ほど田舎臭さの抜けない男もいないだろう。
だが、彼だって悪いところばかりではなかった。いくらまだ高校生だったとはいえ、初めての相手である。その時はしっかりと選んだつもりだった。
彼には男らしさがあった。男らしさというより、男臭さと言った方が正解かも知れない。まわり全体には朴訥に見えるが、仲良くなってしまうと、彼の中にある独占欲が見えてくる。
独占欲に対して女性には賛否両論があるだろう。
「束縛されるのはいや」
という女性もいれば、
「しっかりと自分の前に立って、ついて来いと言ってくれるような人が好きなの」
という女性もいる。高校時代の満子は明らかに後者だった。
だが、一度抱かれてから、彼の様子を見ていると、次第にメッキがはがれてくるのを感じた。自分が女性として目覚めたことを自覚し始めたことで、相手の裏の部分が見えるようになったからだろう。裏の部分が妙に薄っぺらく感じられたのだ。
――最初から分かっていたのかも知れないな――
彼の薄さに気付いても落胆はしなかった。何となくだが、長く付き合っていく相手ではあにことを感じていたように思うからだ。
――初恋なんて、こんなものなんだわ――
初恋が甘いだけで終わってしまうことを、満子は覚悟していた。逆に相手から裏切られるよりもいい。性格を読みきれなかったのは自分が悪いのだし、それなりに勉強にもなった。
――私って、こんなにも淡白な性格だったのかしら――
満子はそう感じたが、間違いではないだろう。
その頃からだった、都会に憧れ、都会の短大を目指すようになったのは。
別に恋がはかなく終わったからというわけではない。最初から思っていたことだ。時々今でもその時のことを夢に見たりする。満子自身はそれほどだとは思っていないつもりでも、夢は正直だ。
作品名:短編集102(過去作品) 作家名:森本晃次