短編集102(過去作品)
その時は、気がつけば家に帰りついていた。どうやって帰ったのかと聞かれてもハッキリと答えられない。もっとも、そんなことを聞くやつなどいないだろうが、海岸線を見ていて同じような感じを受けた正興自身が、自問自答してしまいそうであった。
――本当にどうやって帰り着いたんだろう――
ハンドルを握りながら考える。頭の中で時間の感覚が麻痺していたのかも知れない。海岸線はやはり同じような場所を行ったり来たりしているように思わせ、今度も気がついたら海岸線を抜けていた。
――あの時も他のことを考えていたのではあるまいか――
目の前で不思議なことを感じているのに、頭の中では違うことを考えているということは往々にしてあるかも知れない。
今までにもあったような感覚だが、改まって考えたこともなかった。
海岸線を抜けると、いきなり森の中を走ることになる。内陸部を走っているのだが、その先に見えるのは、小高い山だった。まわりは連山になっているが、正面に見える山が一際高く見える。
走りながら山頂ばかりを気にしているが、走っても走ってもなかなか山に近づいているという感覚がない。何よりも勾配を感じないのだ。
山というとつづら折りの道を蛇行しながら登っていくものだという感覚があるのに、つづら折りはおろか、山に近づいているのか不思議である。
しかし、一際大きな山を正面に走り続けているのは間違いない。時間の感覚だけではなく、距離感も失っているのではあるまいか、正興は運転しながら少しずつ疲れが出ているのではないかと思えてきた、
途中のドライブインで小休止し、さらに先を目指すが、今度はちょっと走っただけで山道を感じた。
森が深くなり、木々が次第に高くなってくる。緑も一層深い色に感じられ、日の光が明らかに遮断されていくのを感じていた。
つづら折りに差し掛かると、山頂を確認できなくなっていた。すでに山の麓に辿り着いているのだろう。地図で見ると目的地は、その山を越えたところにあるようだ。まずは山の峠を目指して走った方がよさそうである。
――一つのことに集中すると、自分が感じたいことが分からなくなるのかも知れないな――
休憩をしなければ山頂に辿り着けなかったかも知れないと感じた。海岸線を走っている時も、小学生の時に住宅街を歩いて帰る時も、やはり途中で他のことを考えたのかも知れない。
山頂に差し掛かると、展望台が見える、バイクでツーリングをしている連中が数人展望台から下界を見ている。正興も車を下りて、下界を見下ろしているが、ちょうど雲が掛かっていて、あまり下界を見ることができない。
――変だな――
下からずっと山頂を見ている時は雲なんて一つもなかったではないか、山頂についてこれだけの雲がどこから湧いて出たのだろう。正興は不思議に思った。
ツーリングの連中はヘルメットを脱ぐこともなく、じっと下界を見つめている。彼らの表情が見えないことは少し気持ち悪かったが、正興が展望台から下界を見下ろすのを見ると、一人が号令を掛けて、すぐにバイクに戻る。そして、正興が上がってきた道を降りていった。相当な音を立てて下りていくが、まさにその時に濃くなってきた霧のために彼らの姿を見ることはできなかった。
霧がこれほど音を反響させるものだとは思わなかった。遠ざかっていくのだから音が小さくなってしかるべきなのに、一向に音が静かにならない。それどころかやまびこのようにあちらこちらから聞こえてくるようで、空気が薄くなって聞こえにくくなっている耳を刺激している。
――これ以上気にしていると、本当に方向が分からなくなりそうだー―
という思いの元、今度は山を下っていく。
霧の中を走っていくと、しばらくして緑が鮮やかなところに出てきた。来た道に似ているが明らかに違っているのが分かったのは、麓のところに大きな池があるのが見えたからだ。
――そういえば地図に池が書いてあったな――
地図上ではあまり気にならなかったが、池があることで、山を下りてきたことを確信した。池を越えて少し行けば目的地の村がある。
――やっとここまで来たか――
それまでも二時間ちょっとのドライブくらい、いくらでもしてきたが、ここまで疲れたのは初めてだった。走りながら時間の感覚が麻痺したこともあった。だが、その時は距離感をしっかりと保っていた。逆に距離感が麻痺したこともあったが、その時は時間の感覚がしっかりしていた。
――今回のように時間の感覚も距離感も同時に麻痺するなんてことは今までにはなかったことだ――
と感じたものだった。
旅行で車を走らせるのはその時が初めてだったので、それが影響しているのかも知れないと考えた。幾分強引な気休めにしかならないかも知れないが、それで納得するなら問題ない。
目的地は山から下りたところにあるのだが、標高からすればそれほど平地ではない。むしろ山の上といってもいいくらいのところなのだが、どうしても山の裏ということで、感覚的には平地の感覚だ。
その証拠に池から流れる川の下流に、目的の村がある。まわりを山に囲まれた盆地のようなところであるが、それが余計に閉鎖的に見せるのかも知れない。
閉鎖的な村であることは、正興も最初から分かっていた。何しろ落ち武者伝説のあるところだ。人目につかないところでないと意味はないだろう。
森の間に作られている道を走っていたが、道は綺麗に整備されていて、秘境の村に続いているという感覚はない。まっすぐに続くその道は、まるで北海道の高原を走っているかのようだった。
厚い雲に覆われているが、時々差し込んでくる太陽の光に、緑の葉が光って見える。
――さっきまで雨が降っていたのかな――
木漏れ日の線が鮮やかで、よく見ると虹が出ているようにさえ見えてくる。
――まるで夢でも見ているような感じだな――
その時の旅行は最初からそうだった。見るものすべてが驚かされるものばかりに感じるのだったが、後から考えれば最初から予感していた光景に思えてならない。
宿に入ると、すぐに温泉に浸かった。この土地に温泉が出ることは話に聞いて知っていた。露天風呂が宿に用意されていて、霧に咽ぶ中の温泉は、意外と風流だった。
思ったより寒くない。山の中なので、もう少し冷えるものかと思っていたが暖かい。霧が掛かっているわりには蒸し暑くなく、過ごしやすいのがありがたかった。
半時間ほど温泉でゆっくりと汗を流すと、疲れはだいぶ取れていた。温泉から出ると浴衣に着替えて、村を散策に出かけた。
村全体がどれほどの広さなのか分からないが、実際に見るところというのは、宿の近くに集中していて、少し歩いたところにある神社や、その裏には滝があるということだった。さすがに下駄というわけには行かないので、浴衣に靴というのもおかしなものだが、靴を履いて出かけてみることにした。
なるほど、宿の横から坂になっていて、坂を上ったところに神社は位置している。宿の横を通らなければ神社に行けないようになっているようだ。
舗装もされていない道を少し上がると、鳥居が見えてきた。
作品名:短編集102(過去作品) 作家名:森本晃次