やる気のない鎌倉探偵
ということが一番の理由で、この曲をベートーベンの中でのナンバーワンと思っていたのだ。
「その気持ちはよく分かりますよ」
と、ベートーベンらしいという発想には、マスターも感心してくれた。
「確かに、ベートーベンはその旋律の独特さに、ワンフレーズが有名だったりするけど、本当に真の作曲の醍醐味は、曲全体の雰囲気から感じ取れるものでなければいけません。そういう意味ではベートーベンという人の曲は、実は全体の雰囲気に魅力を感じるのであって、それが私などの興味を引くんですよ」
と言っていた。
それを聞いて、鎌倉青年は、
「その通りですね。僕もベートーベンはそういう作曲家だと思います。何と言ってもクラシックというのは、大勢のオーケストラを従えて、一つの大きな演劇を創造するようなものですからね。映像にはない想像力を掻き立てられるものでなければいけない。しかも、それが昔から伝わってきたものであり、今の時代に受け継がれてきているんでしょうが、どうも私は今の曲を手放しで好きにはなれないんですよ。勉強不足なのかも知れませんけどね」
と言うと、
「いやいや、若いのによくそこまで感じれるものですね。まさに芸術というのはそういうものだと思います。これが音楽でなくても、絵画であったり、彫刻であったり、または文学の世界でも同じことだと思います。だから、音楽、絵画や彫刻、文学の三方向にそれぞれの適度な距離があり、それが均等に配置されていることから、時代時代で文化が発達してきたのではないでしょうか? 私はそんな風に思います緒」
とマスターが返してくれた。
「まさにその通り」
と言って、鎌倉青年はすっかりマスターの話に陶酔していた。
鎌倉探偵は読みかけの小説を開いて少し読んでいると、それまで誰もいなかったと思っていたカウンターに一人女性が座っているのに気が付いた。店に入ってからの時間としてはそんなに経っていないような気がしたが、時計を見るとすでに一時間を過ぎていた。
――なよほど、口に運んだコーヒーが少し冷めているくらいだからな――
と感じたが、彼がこの店に来ると滞在時間は結構なものなので、マスターも鎌倉探偵の方もさほど気にはしていなかった。
下手をすると、午前中に来てから、夕食をその店で摂って帰ることもあるくらいで、一日ゆっくりしたい時などに利用する店の一つであった。
「一つであった」
ということは、他にも似たような店を鎌倉探偵は持っている。
ここから近いわけではないが、ちょうど門倉刑事のいる県警本部の近くにある店で、そこもクラシックを基調にしたお店であるが、音楽の趣味は同じクラシックでも少し違っていた。
クラシックに詳しくない人には何が違うのか分からないかも知れないが、この店では交響曲が多いが、警察署の近くの店では、管弦楽器を使っての音楽が結構多いのが特徴だった。
最近はそっちの店の方が多かったのだが、今は警察署によるような事件もさほど引き受けることもないので、こっちの方が多いかも知れない。本当はその方が世の中が平和ということでいいことなのかも知れないが、鎌倉探偵としては複雑な気持ちだった。
それは金銭的なという意味ではなく、毎日の生活をしている中で、自分が充実した毎日を送れるためには、刺激が必要だというのは、誰もが考えていることだろう。鎌倉探偵の中で刺激を求められるのは仕事として探偵業に携わっている時であり、あまり暇すぎると、リズムが狂ってくるのも仕方のないことで、実際に鬱状態になり、病院で薬を処方してもらい、クスリを飲みながら、通院する日々が続いたこともあった。
この店のマスタ―とは大学時代からの知り合いなので、そろそろ十数年になる。小説家だった時代も知っているが、マスターがいうには、
「小説家をしていた頃よりも、今の方が数十倍生き生きしているよ」
と言ってくれ、その言葉が自分の心境と同じだということに喜びを感じていた。
――だからこの店に通うことをやめられないんだよな――
と、鎌倉探偵は独り言ちていた。
鎌倉探偵の指定席は、カウンターの一番奥、ここからだと店内も見渡せると、窓の外も一望できる気がしているので、見渡すには最高の場所だと思ったことから、ここが結構早い段階からの指定席になっていた。
「その席は、意外と誰も座らないんだよ」
とマスターが言っていたが、
「どうしてなんだろう?」
というと、
「自分が見渡せるということはまわりからも見られるという意識が生まれるんじゃないかな? どこにいても見られることを嫌う人って結構いるからね」
と言っていたが、
「そうなんだ。僕の場合は見られることは確かに気にはなるけど、見渡せるという利点に比べればさほど遜色ないような気がするんだ。むしろ見渡せる方が重要視できるんだけどね」
というと、
「それはきっと鎌倉さんが小説家であったように、観察眼を一番に考えるからじゃないかな? 普通の人は見られることを意識してしまう場合が多いからね」
と言われてしまうと、
「じゃあ、結構僕はまわりから意識されていたのかな?」
「中にはそういう人もいたでしょうが、何分このお店は常連さんが多いので、常連さんから誤解を受けるようなことはなかったでしょう? だから、鎌倉さんの場合は大丈夫なんですよ」
と言ってくれた。
「それはよかったんだけど、僕は小説家としての、全体の雰囲気を見るよりも今は探偵として、人個人を見てしまうことが多いからね。無意識のうちに誰かを凝視してしまっていて、その人のことを想像し、丸裸にしてはいないかと危惧することもあるくらいなんだ」
というと、
「それは仕方ない。それで助かる人もいるのも事実なんだからね。だから、鎌倉さんもそう感じているのなら、余計なことを考える必要はないんじゃないかな?」
まさにその通りだと思った。
「そういえば、僕がここに来るようになってからどれくらいが経つようになったんだろうな」
というと、
「そうだねえ。まだ息子たちが学生だったから、もう十五年以上にはなるんじゃないかな?」
マスターの息子さんたちとは、それほど歳が違わなかったので、時々遊びに出かけることもあった。
そもそも小説家になる時、応募することを進めてくれたのが、ここの息子だった。
「俺なんか、応募したって一次審査ですぐに落選さ」
というと、
「やってみないと分からないじゃないか。あとになって。ほら、よかったでしょう? なんてことになりかねないんだからね」
と言っていたが、本当にそうだった。
学生時代は今の探偵業と違って、結構ものぐさで、面倒くさいことはやりたがらないところがあったので、その背中を押してくれたのが、ここの息子の長男だった。
今は渡米していて。向こうで事業を起こしているらしいが、あの時の行動力から考えれば、それも至極当然と思えることだった。
高校時代から数学が得意だったこともあって、計算の早さはビックリするほどだった。考えてみれば、探偵のような仕事は彼の方が向いているのかも知れない。
そういえば、よく本を見ながらミステリー談義をやったものだ。子供が見る本の中で、謎解き関係の本があったが、彼はそれを持って着て。
作品名:やる気のない鎌倉探偵 作家名:森本晃次