やる気のない鎌倉探偵
同じ時間に、本棚にこれだけたくさんの本があるというのに、一冊を二人で取ろうとするなど、何とすごい偶然であろうか。
そんなことを思っていると、相手が女性であったことに気付き、さらに顔が真っ赤になってしまった。
その作家の本は、その一冊しかなく、売り切れているのか、それとも最初から一冊しか置いていないのか、はたまた、一冊しか出していないのか、そのどれかであろうが、どれなのかはよく分からなかった。
「どうぞ」
と言って、彼女にその本を譲るつもりだったが、彼女も遠慮したようだったが、
「どうぞ、構いませんよ」
と笑顔を見せると彼女はニッコリと微笑んで、やっと本棚からその本を取ると、
「ありがとうございます」
と軽く頭を下げてくれた。
鎌倉探偵の憂鬱
その女性は、年齢的にはまだ二十歳を少し超えたくらいだろうか、身長は百五十センチにも満たないくらいの小柄さで、髪型もおかっぱぽくて、幼く見える。そのせいもあってか会話も気さくで、話しやすさを感じさせた。
人懐っこさも感じられ、何となくこのまま別れるのが少しもったいない気がしていた。
――少し人恋しくなっているのだろうか?
と、自分で感じるほどで、彼女が本棚から本を出すのを見ていると、そのスピードはかなりスローモーションに見えた。
「後ろ髪を引かれるような思い」
という言葉があるが、その時の鎌倉探偵の心境は逆に、
「後ろ髪を引っ張りたい」
という衝動に駆られていた。
相手はまだ二十歳そこそこの小娘なのに、どうしてそんな心境に捉われたのか自分でも分からない。寂しさが嵩じてくると、抑えが利かなくなって、そのまま抱き着きたくなる衝動は、学生時代にはあった。特に高校時代というと、多感な時期、女性にモテたことなど一度もない鎌倉青年は、日ごろの鬱憤を小説を読んで紛らわせていた。その思いがいつの間にか小説を書くという職業になるのだから、その時は、
「世の中というのは面白いよな」
と思っていた。
今も言葉にすると同じ思いを持っているが、それは言葉にすると同じというだけで、ニュアンスはかなり違うものだった。
鎌倉青年は彼女がレジで精算するまでずっと彼女を見ていたが、こんなにも後ろ髪を引かれる思いを感じたのは初めてで、彼女がレジで精算している間、もう一度、さっき彼女が本を抜き取って空いたスペースをじっと見つめていたが、次第にそのスペースが狭まってくるような錯覚に陥り、そのうちに、そこに本が入っていたなどということが分からなくなるほどに、狭くなっていくような気がしてならなかった。
もちろん、そんな時間まで見つめているつもりもないし、彼女を見失いたくないという気持ちもあったが、さすがにこの年齢で、しかも探偵という職業であることからも彼女を追いかけるわけにもいかない。それではストーカーになってしまうではないか。
最近はストーカー犯罪にかかわる捜査をすることも多いので、ストーカーというものがどれだけ卑劣な行為なのか分かっているが、相手を好きになってしまうと、その気持ちが大きくなりすぎて抑えが利かなくなることがあるということを忘れていたような気がする。
それは、自分が探偵であるということから、わざと抑えようとしていたわけではなく、本当に意識としてなかったのだ。
「ストーカー行為というのは、陳腐ではあるが、許されない卑劣な行為」
として認識していたので、それ以上の感情も、それ以下の感情も持ち合わせていなかった。
自分の中で、
「それ以上でもなく、それ以下でもない」
という感情は、完全に確定した思いであり、動かしがたいものであった。
それがあるから、ブレることはなく、探偵という職業に従事できるのだと思っている。
鎌倉探偵はそのまま本屋を後にした。旅行雑誌を見ようかとも思ったが、急にその気も失せてしまったのだ。
彼女を見たことで、自分が本屋に立ち寄った意味がすべて終わってしまったような気がしたというのが、一番の理由であろう。
表に出ると、ちょうど一日で一番暖かい時期だったので、最近めっきり冷えてきた空気に暖かな日差しが当たって、気持ちがよかった。
ただ、このまま帰るのも何か寂しい気がして、行きつけの喫茶店に立ち寄ることにした。その店は昭和の頃からある店で、赤レンガ造りの外装が洒落ていて、最初に来た時からすぐに馴染みになった。
中は木目調の装飾が多く、いかにも昭和を思わせた。テーブルの上には、ランプが置かれていて、まるで大正時代のガス灯を思わせる感じも好きだった。
「さすがに大正時代は知らないからね」
とマスターは言っていたが、実際には、昭和が好きだということだった。
実は大正ロマンの店というのは、当時小さなブームがあったようで、ブームに乗っかるのが嫌だったマスターが、昭和風にしたというが、それは正解だったのかも知れない。
もっとも、今来店する客に、昭和だろうが大正だろうが、そんな微妙なところが分かるはずもないのだった。
BGMがクラシックというのも嬉しかった。しかも、マスター秘蔵のクラシックレコード屋CDが所狭しと置かれていて、リクエストをすればかけてくれるのだ。今ではまず見ることのなくなったレコードも、昔のプレイヤーで針を落とすというレトロなもので、しかも、針を落とした時の、
「プツッ」
という独特な音が何とも言えずにいいのである。
鎌倉氏は、実際にレコードを触ったことはない。すでにCD世代であったからだ。ただ家に昔のプレイヤーやレコードが置いてあったのは知っていた。子供心に、
「これは、もう聴かないの?」
と聞くと、
「今はCDがあるから、そっちで聴いていると」
と言っていた。
流行りの音楽を聴いている分にはCDの方がいいのだろうが、クラシックやジャズなど、昔からの音楽であれば、
「レコードの方がいいんじゃないか?」
と感じるようになったのは、この店に来て、マスター秘蔵のレコードを聴いてからのことだったが、その感覚に、やはり間違いはないようだった。
この日の鎌倉探偵は、実は読みかけの小説を持っていた。まだ半分くらい読んだところであったが、すぐに読み終わると見越しての本屋だったのだが、少し残念であった。それでも、本屋で本の背を久しぶりに眺めてからこの喫茶店に赴くというのは、芸術に浸れるということで、一休みできる感覚であった。
旅行に行きたいという気持ちも、まだ強くなってきた気がする。海外までは考えているわけではなく、日本のどこかということになるのだろうが、候補はないわけではなかった。
ただ、今はクラシックの時間、自分が思いを馳せるのは、
「中世ヨーロッパ」
だった。
店に入った時に流れていたのは、ベートーベンの交響曲第三番の、
「英雄」
であった。
鎌倉氏はこの英雄という曲が好きだった。
数あるベートーベンの交響曲の中でも、この英雄が一番ではないかと思っているくらいで、運命や第九のように、誰が聴いてもすぐに分かるという代表的な旋律があるわけではないか、
「いかにもベートーベンらしい」
作品名:やる気のない鎌倉探偵 作家名:森本晃次