やる気のない鎌倉探偵
それなのに、今はどうだ? 数十年前であれば、人気作家のベストセラーとして、増刷増刷を重ね、さらには映画化やドラマ化に便乗し、小説も売れまくっていた時代があったのだ。
今は、正直小説で映像化されるものはあまりない。どちらかというとマンガの原作が映像化されることが多い、活字離れを後押しする結果になるのだろうが、活字というものの醍醐味は、
「想像力」
にある。
想像力が乏しいからマンガに走るのか、マンガが安易にウケてしまうので、小説が敬遠されるのか、どちらにしても、本屋なのだから、活字の本を売ってなんぼではないのだろうか。
それを思うと、
「なるほど、これじゃあ、本屋が廃れるのも無理はない。
売れそうなマンガばかりを売り出して、目先の利益流行を追うことで、結局、本来の本が売れずに活字離れとなってしまうことで、墓穴を掘ることになるのだ。
鎌倉探偵は、
「まるでヘビが自分を尻尾から飲み込んでいるような気がする」
という、不可思議なたとえを思い浮かべた。
これも活字と同じで洒落の利いた皮肉なのだが、活字離れしてマンガにばかり走っている人には、これを皮肉として受け取ることもできないであろう。実に困ったものである。
門倉刑事は、文庫本の背表紙を眺めていると、一人の作家で埋まっているということはまったくなかった。昔なら、二段くらいに並んでいた作家の本も、今では多くて十冊くらいしかなくなっていた。
それでもまだ並んでいるだけいいのかも知れない。本のカバーの裏を見ると、そこにはその文庫本の出版社から出しているその作家の作品一覧が書かれているが、少し前に軽い気持ちで覗いてみると驚愕したのを覚えている。
数十年前には五十冊以上、その出版社から発行されていたのに、並んでいる十冊くらいしか載っていない。これは他の本が絶版になったのか、一旦全部絶版にして、再度新たに新装版として編集しなおしたのかのどちらかであろう。
「多分、編集しなおしているな」
と思い、それに伴って値段も釣り上げたに違いない。
本の値段はどうやって決めているのかは分からないが、自分が子供の頃に買って読んだ本の値段からすれば、今では倍近くに跳ね上がっているのだ。
実際に利用しないものを、何年かぶりに利用すると、急に値段が跳ねあがっていてビックリさせられることがある。
都会に住んでいて、タクシーとはあまり縁のない人が数年ぶりにタクシーに乗ると、想像以上に跳ね上がっているとして、ビックリさせられるということもあったであろう。
または、野球場などの入場料にしてもそうである。昔は千円くらいで入れたものが、今では三千円以上になっていたりと、ぼったくりではないはないかと思うほどになっている。
鎌倉探偵もあまりタクシーを利用することはなかったので、この間浮気調査で乗った時のタクシー代にはビックリさせられたくらいだった。
何にしてもそうであるが、何年かに一度の割合で、消費税なるものが値上がりしていくので、それに伴っての便乗値上げも結構あったのだろう。
「していない」
と言いながら、消費税の値上がり分に便乗して、普通に値上げをしているのだからたちが悪い。
そういう意味での便乗という言葉は鎌倉探偵は大嫌いだった。政府まで見てみぬふりを決め込んでいるのだから、どうしようもない。
「犯罪が増えるのも仕方がないか」
とそう思ってしまい、どうすればいいのか分からない気分になっている。
自分が感じてはいけない感情なのかも知れないが、やり切れない気持ちに時々陥るのは、こういう心境からなのかも知れないのだった。
本屋によって、本の背を見ながらため息をついていた。しかし、面白いものえで、一人の作家の本があんなにあったのに、今は数冊しかなくても、文庫本のコーナーは狭くなったという感じがしない。
――それだけたくさんの作家の本が置いてあるということなのかな?
とも思ったが、作家の名前を見てみると、昔からの作家が多いのも間違いない。
やはり本屋というのは、変な意味で神秘性を感じさせるものだった。
鎌倉探偵が好きなのは、昭和初期の探偵小説。今のように科学捜査が発展し、犯罪者が犯罪を起こしにくい時代ではなく、言い方は悪いが、
「何でもあり」
とも言えた時代が好きだった。
もちろん、犯罪性の多様さが好きだったというだけではなく、今とは違った動乱の時代で、さらに大正ロマンと言われた時期をすぐ前に控えた時期ということで、そのあたりも興味深いのだ。そんな時代の本を読んでいると、想像力がいかに大切かということを再認識させてくれる。それが嬉しかったのだ。
尤も、この時代の小説は、子供の頃に一度読破している。何しろ本屋には所狭しと昭和初期の探偵小説作家の本が並んでいたのだ。すべてを読もうとするなら、どれほどの時間がかかったであろうか。一人の作家を読破するだけで、半年近くはかかったかも知れない。だかそれが醍醐味でもあり、読書を趣味というにふさわしい時代だったのだ。
そんな本の背を眺めていると、時間を感じさせないというか、金縛りに遭ったような気がしてきた。そもそも本が好きだったのは、小学生の図書館に行った時、本のあの独特な臭いを感じたからだ。紙の何ともいえない、重厚な香り、しかしどこか鼻を突く黴臭さとよく子供なのに分かった思うような淫靡な香りが一緒に漂ってきたことだった。
気に入った作家の本も、別になく、せっかく本屋に来たのだから、旅行雑誌も見てみようと思い、文庫本のコーナーから立ち去ろうとした時、一冊の気になる本があった。その本は、以前自分が解決した事件で被害者になった人で、鎌倉探偵の助力で、事件が解決したという、彼にとって曰くのある作家の作品だった。
――そういえば、彼の作品を読んでいなかったな――
作家の名前は山口豊という。
ペンネームも本名を使用していて、彼の作品を読むと彼の性格が見えてくると言われていたというが、その時の事件はもっと単純なもので、作品を見るまでもなく解決することができた。
それは、鎌倉探偵の、
「自分が優秀だから」
というだけで、事件が単純だったというべきであろう。
犯人も鎌倉探偵の手腕ですぐに自首をして、被害者と言っても、彼がその時、大きな被害を被ったというわけではない。せめて暴行罪が成立する程度であったが、実際に殺害計画を立てていたことには違いなかったので、未然に防いだという意味では、よかったのかも知れない。
むしろ、これが一番よかったのだ。被害もさほどなく、今後の憂いもないという最高の形での事件収束は鎌倉探偵にとってもよかった。時間もさほど食うこともなく、また依頼者もさほど金銭的にも精神的にも苦痛を食うことがなかったからである。そういう意味で名前は知っていたが、実際の面識はなかったのだ。
鎌倉探偵は、その作家の本を読み損ねたのを思い出し、この機会に読んでみようと、手をその本に伸ばしたが、そこにもう一つの手が伸びているのに気付かなかった。
「あっ」
と思ったが時すでに遅く、相手も、
「あっ」
と言って、一緒に手を戻したが、少し触れてしまった。
二人はまったく同時に同じ本を手にしようとしたのだ。
作品名:やる気のない鎌倉探偵 作家名:森本晃次