やる気のない鎌倉探偵
「この世の悪」
に対しての戒めの小説なので、自分個人のストレス解消というには、少し言い訳の利いた、
「言い過ぎ小説」
であったかも知れない。
そう思うと、本当の意味でのストレス解消を書いてみたいち思うようになった。それは、完全に自分だけのわがままで書く小説である。
学生の頃、一番嫌だったのは、子供の声だった。
大人になると、そこまで気になることはなかったが、勉強をしている時など、近くの公園から子供の喚き声が聞こえてくる。
保護者という名の大人たちは、ママ友同士の会話で手一杯で、子供のことなど見てもいない。そのくせ、子供が怪我をすると、一緒にいた子供が悪いなどと喚き散らすやつもいて、
「自分のことは棚に上げて」
というのは、まさにこのことであろう。
そんな大人に育てられた子供なのだから、それはまったくまわりのことを考えてもいないだろう。そもそも、
「子供なんだから、うるさいのは当たり前」
などと言っている親は、一体どんな育てられ方をしたのかと言いたい。
うるさくしていたら、
「まわりの人に迷惑でしょう」
と言われて育ったはずではなかったのか。
それを思うと、親がちゃんと教えていないから、子供もロクな教育を受けていないことになるのだろうが、やはり、それでも子供が悪いということには変わりはない。
大人になってから、その子供たちが例えば警察官や政治家にでもなったとして、まわりを考えない、自分たちだけのことしか考えようとしない大人になったとすれば、それを、
「大人がちゃんと教育してこなかったから」
という理由で片づけていいものなのdろうか。
特に政治家などという人種は、自分たちのことしか考えていない人が多いという印象なので、そんな強雨行くしか受けていないということを裏付けているということになるのであろう。
そうなってしまうと、その時の大人の責任は重大であったと言えるだろう。
「誰も口にしないのなら、俺が小説に書いてやる」
と意気込んで小説に書いてみた。
こればかりは、さすがに個人攻撃でもないし、たいていの人が感じていることだろうからと思いネットにアップもした、
ほとんど誰もコメントを寄せる人もいない。
「ひどいことを書いてるな」
と思っている人も多いのだろうが、それよりも、
「君子危うきに近寄らず」
とでもいおうか、下手にこのような爆弾的な話に突っ込んでしまって、爆破に巻き込まれでもしたら嫌だと思うことだろう。
それを思うと鎌倉氏は、
「将来、俺は正義の味方になるかも知れないな」
と、実際に漠然とではあったが、感じていた。
それはあくまでも小説家でという意味で、どこまで世間の理不尽さに突っ込んでいけるかということを目指してみたが、結局は敗退することになったのだが、それが同じ、
「正義の味方」
という意味で、探偵になるなどと、大学時代には思ってもいなかったことであった。
「一体、何が正義の味方だというのだろう」
正義というのがどういうものなのかも分からず、大学時代にはストレス感傷のために小説を利用したという経緯があるが、それを自分では悪いことだとは思っていない。
小説家など、別に読者に感動を与えるために書いているわけではない。確かに自分の書いた小説で、何かを感じてくれれば嬉しいが、自分は聖人君子でもなければ、神様でもない。
逆に筆一本で、神様にもなれれば、悪魔にもなれるのだ。
そんな小説家が、ジレンマによって小説家を諦めて、一人の人生を裏表、そして悲哀を見るために探偵になったというのは、実に皮肉なことではないだろうか。
小説を書くことで培われた発想力と、想像力、そして何かを創造するという気持ち、この三つを持っていることが、鎌倉氏が小説家を辞めても、探偵として生きていくことにスムーズな移行ができたというのも、すべからく無理のないことだったように思う。
世間の理不尽さを、正面から怒りを持って表現することができた学生時代があったから、探偵になっても、人の裏表を見ることができ、その裏付けがどこにあるのかも、他の人とは違って、見つけることができたのかも知れない。
人が自殺をしようと思い込むのは、よく、
「逃げに走ったからだ」
という人がいるが、果たしてそうなのだろうか?
死後の世界というものが、どんな世界なのか。十万億土と言われている世界があるが、果たしてどんな世界なのだろう。極楽浄土のことだとされているが、果たしてそんな世界は存在するのだろうか。
そういえば、ある探偵小説を読んでいて、邪教に立ち向かった犯人が、言っていた言葉に衝撃を受けたことがあった。確か、
「天国と地獄という言葉があるが、天国はあの世に行かなければ見ることはできないが、地獄の正体はこの世にあるのだ」
と言っていた。
天国だと思っているこの世に存在するものはすべてが幻で、誰かが天国を創造しようとするならば、必ず誰かが地獄を見ることになる。そして、結果自分にもその地獄が回ってくるのだ。
それは、天国と地獄という架空の世界を通じて、現世の中で繰り返させるもので、輪廻のようなものだと言えるのではないだろうか。
人間が極楽浄土に至るまでには、無数にある仏土を超えなければならない。これが十万億土という言葉の由来だというが、非常に離れているという言葉でも使われるのだ。
やはり、この世に極楽などありはしない。あるとすれば、それは幻であって、錯覚にすぎないだけである。
考えてみれば、十万に置くが絡んでいるのだ。
「これでもか」
と言わんばかりに数を重ねているではないか。
そんな世界に行き着いてしまうまでに、どれほどの時間が掛かるというのか、一人の人間が生まれてからシム迄を何度繰り返す必要があるというのか、
「そんなものは存在しない」
と言い切ってしまった方がどれだけ気が楽な者であろうか。
それを想うと、鎌倉氏は自分が世の中に何をもたらしてきたのか、そんなことを考えることすらおこがましいと言えるのではないだろうか。
自殺をしようとしている人には何が見えるというのだろう。十万億土が見えるというのか、それとも、今よりは少しはマシな地獄が見えるというのだろうか。
とにかく、何かから逃げ出したいという気持ちを持っての覚悟の自殺。
「人を救うと言って、宗教は何もしてくれない。自殺しようとしている人を止めることもできないじゃないか」
という人もいるが、
「自殺というのは、宗教では禁止されている。特にキリスト教では自殺をした人間が天国にいけるということはない」
とも言われ、ほとんどの宗教は自殺を禁じている。
それは、まるで天命に逆らう行動だから神様が許さないのか、まるでギリシャ神話や、聖書のような話ではないか。
しかし、それならば、皆が皆天寿を全うするわけではない。特に戦争などが起こると、人間はまるで虫けらのように殺されていく。まさに、
「この世の地獄絵図」
である。
しかも戦争というものの半分以上は、
「宗教がらみ」
ではないか。
宗教が人の間で争い、しかも殺し合いを引き起こす。元々宗教というのは、
「人をこの世の苦しみから解放するもの」
作品名:やる気のない鎌倉探偵 作家名:森本晃次