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やる気のない鎌倉探偵

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 と真剣に思っていて、もし、あの場面に自分も渦中の人であったら、人数が多いだけに、複雑な関係になっていたことだろう。
 そう思うと、鎌倉は、まったく嫌な気がするということはなかった。
「真実と事実なんて、そんなものさ」
 と、半ばやけくそ気味に感じていた。
 そんなことがあってから、小説の中で、似たような話を書いたことがあった。それは学生時代に書いたもので、最初あら公にしようと思っていたものではない。
 小説をアマチュアの気分で書いていると、何でも書けるような気がしていた、人の悪口や愚痴であっても、表に出さなければ何でもありだった。極端な話、放送禁止用語も使いたい放題であるし、
「呪いの藁人形」
 の代わりにだってできるのだ。
 実際に大学生の時に、嫌いな相手を小説の中で殺したこともあった。
「どうせ誰にも見せないんだ:
 という思いがあったからこそ、実名を使って、事実をそのままに書きまくった。
 書いているうちに、
「こんなにスラスラ書けるなんて」
と思ったものだ。
 基本的にノンフィクションは大嫌いだった。自分で描く作品はあくまでも架空の話であって、それが経験に寄ろものであっても、架空の話ということにしてしまえば、それはありなのだ。
 その時感じていたのが、
「事実と真実の違い」
 であった。
「真実というものはどんなにフィクションだと言っても、架空ではないので、書くことはできないが、事実は捻じ曲げて書くことができるので、経験したことであっても、フィクションとして書くことは可能である:
 という印象があった。
 普通考えれば逆のように思うが、鎌倉の中では、
「真実というのは、事実に加えて信念が入っているので、自分の中で架空だと思っても、曲げることはできないが、事実は事実でしかなく、信念の伴わないものなので、曲げることは可能だ」
 という発想である。
 考えてみれば、小説で書かれたノンフィクションであっても、そべてが事実だと言えるであろうか。
 どんなに取材を重ねても、どんなに事実を羅列したとしても、犯人が考えていたことを他人である小説家が書くことなんてできないのだ。
 鎌倉氏が、
「自分はノンフィクションは書けない」
 というのは、自分だけではなく、書ける人間などいないという理屈を、自分が公表することを避けているだけのことだった。
 これは、ひょっとすると小説家と言われる人であれば、誰にでも分かることなのかも知れない。それを口にしないということは、
「言ってはならないタブーが含まれているんだ」
ということになるんだろう。
「ノンフィクションなど、簡単すぎて書けない」
 とずっと自分に言い聞かせてきたは、実際にはそうではないのだ。
「まった逆の発想は、やはり逆転の発想からしか生まれてくるものではなく、そのうえで生まれてきた発想は、意外と自分でも気づかないものである」
 と言えるのではないだろうか。
 自分の書きたい小説を、しがらみを外して書いてみると、本当にノンフィクションのようになってしまう。そう思うと普段書いている小説とはまったく違って、言葉で誰かに諭しているような感覚になるのだった。
「教授などと言われている偉い先生の論文など、同じような発想から生まれているとすれば、これほど面白い発想もないものだ」
 と言えるのではないだろうか。
 小説の中でのフィクションとノンフィクション、どちらかが事実を描いていて。どちらかが真実を描いているのだとすれば、きっと真実がノンフィクションなのかも知れない。
 自分では認めたくない感覚であった。この感覚を悟った時、自分が大きなジレンマに襲われていることを感じた。
――このままでは書けなくなるかも知れない――
 と思ったが。その思いは次第に強くなってきた。
 あれだけ小説家に憧れて小説を書けるようになったのに、あっさりと諦めることができたのは、このジレンマを知ったからではないだろうか。
 そんなこともあったと、実際に小説家を諦める時にそのジレンマを思い出すのは、あくまでも小説家を辞める時だった。それまでは、ジレンマを感じてはいたが、それは小説を書くということが、精神的に追い詰められることであり、その辛さ苦しさが、小説家への憧れに結び付けるものだと感じていたのだろう。
 大学生の時に書いた小説では、一体何人殺したのだろうか。ちょうどむしゃくしゃしていた時期でもあり、自分が何に対して憤りを感じていたのかということすら分かっていなかった。
 ただ、世の中の理不尽さだけは感じていたのは確かで、普通の人であれば、別に気にすることもなく、
「大人としての対応」
 などという言葉で、ひょっとすると、イライラしている自分を隠して、ニッコリと微笑んでいるのかも知れない。
 しかし、鎌倉氏にはそれができなかった。
 時に大学時代というと、無性に、
「正義」
 という言葉に敏感だった頃だ。
「モラル違反は法律違反ではない」
 という理屈が分からなかった時期だ。
 まだ、その頃はやっと禁煙が世の中に浸透してきた頃で、一部の人間(今でもいるが、それよりもはるかに多く緒連中)が、咥えタバコなどをして、平気で歩いていた時期であった。
 中には、いやほとんどの人間がと言ってもいいのだろうが、吸い終わったタバコを道に吐き捨てる。そんな連中にモラルと言う言葉などない。
「自分さえよければそれでいい」
 という考えだ。
 確かに法律では、咥えタバコを禁止してはいない。各県の条例の中には罰金を処しているところもあるかも知れないが、あくまでも条例の範囲である。
 今でこそ、
「室内全面禁止」
 という法律になっているが、それでも、そんな法律の弊害として、路上タバコが増えたのも事実である。
 だが、これは今も昔も言えることであるが、嫌煙者の中には、キチンとルールを守って吸っている人もいるのに、そんな不心得者がいるために、
「たった一部の不心得者のために、俺たち喫煙者全員が、路上タバコを吸っているかのように見られるのは心外だ」
 と思っていることだろう。
 つまり、不心得者たちは、禁煙車だけではなく、喫煙者まで敵に回したのだ。要するに
「四面楚歌」
 を自分たちで演出しているのだ。
 それでもやつらは咥えタバコをやめようとはしない。
「法律で裁けないのであれば、俺が裁いてやる」
 とばかりに、咥えタバコをしている連中を連続殺人で殺してみたり、咥えタバコが当たって、それが子供で、その子が後遺症を持ち、一生をその子のために犠牲にしなければいけなくなり、人生をそこで終わってしまったという話を書くのは実に爽快なものであった。
 別に悪いことをしているわけでもないし、自分ではストレス解消にもなる。
「一度、ネットで公開してもいいな」
 と思ったこともあったが、
「小説家を目指しているために小説を書いている」
 という自負がある以上、ストレス解消のために書いた小説を公開することはさすがに憚られた。
 これが趣味で書いている小説であれば、別にいくらでも公開してもいいだろう。)それは、作者の気持ちでもあるもで、そのあたりはあしからずというところであろうか)
 ただ、路上喫煙や、咥えタバコのようなものは、
作品名:やる気のない鎌倉探偵 作家名:森本晃次