やる気のない鎌倉探偵
マスターは物まねはあまり好きではない。例えば芸人などがやっている誰かの物まねなどは、ただマネをしているだけではなく、その様子を自分たちなりにアレンジし、面白く描いていることで、その場合の物まねは、「モノマネ」という一つの芸としてのジャンルであるから、嫌いというわけではない。むしろ、気に入っていると言ってもいいだろう。
絵を描いていると、急に虚しくなってくるのは、自分の描いている絵が、物まねになっているのを感じるからだった。
絵を描こうと思った時には、物まねになってしまうという発想はなかった。それほど深い意味も持たずに考えていたのだが、描いているうちに、どうしても、被写体に似せようと思って描いていることに気付かされる。
自分は、
「絵を描くのが下手だ」
と感じていたのは、自分の嫌いな物まねに、いつのまにかなってしまっていることに気付いたことで感じたジレンマが引き起こした感情だと思うようになっていた。
そのうちに、
「絵というものは、目の前にあるものを忠実に写し出すものではなく、いかに省略できるものを省略して描けるかというものが、芸術家というものだということを感じさせるものである」
と考えるようになっていた。
それが、加算法と減算法の違いではないかと思うようになった。
これは好きなものを習得するという意味での話になるのだが、加算法は、何もないところから組み立てる、一種の創造性を中心とするが、減算法は、絵画のように目の前にあるものをいかに独創的に描くことができるかという発想で、時として極端な省略を必要とするものである。
そういう意味で、絵画というものは、想像力だけではなく、独創的な発想を求められるものである。これはある意味、一から自分で何かを創造するよりも難しいことなのかも知れない。
あるものから省略していく方が、加算する場合の何もないものから作り出すということに比べて、相当楽だと思われるからである。だが、その思いは自分が一番よく分かっていて、ジレンマに陥るのだろう。
マスターが、自分の趣味として絵を描くようになった時を思い出していると、小説家としてデビューしたにも関わらず、最後には死ななければならなくなった山口氏の気持ちを思い図る気がした。
少なくとも夢を叶えることができたのに、それが最後に死ぬ運命にあったということが、マスターには分からなかった。マスターは、基本的に自分の夢が叶わなかったということはなかったからだ。
小学生の頃には苛めを受けていたマスターは、何事も無難に生きることを信条にしていたように思う。
余計なことを自分に課すことで、変に悩みを増やしたり、思いつめたりすることで、自分を追い込んでしまうことを嫌ったのだ。
苛めに遭ったことのない人は、そんなことは思わない。ある程度、無難に生きることよりも、冒険してでも自分だけの道を切り開こうとするはずだ。だから、あまり他人事のように考えることをしない。そのせいで自分の思い込みや辛煮閉じこもってしまうことで、苦しい立場に追い込まれることがあるのだろう。
だが、苛めに遭ったことのある人は、必ず自己防衛に走ってしまう。無意識の思いなのだが、自己防衛に入ると、まわりだけではなく、自分のことまで他人事のように思うのではないだろうか。
そのことが、言葉に帰ってボリュームを与え、気持ちに余裕のない人間からは、実に頼りになるように聞こえるのだ。
だが、本人はそうは思っていない。まわりに対して自分が他人事のように思っているということは、まわりもそれ以上に自分を他人だと感じていると思うのだった。
自分を他人だと思ってしまうと、閉じこもる殻は、結構強いものであり、自分が一番異常なのに、異常であるという認識を持てなくなってしまう。その状態が、
「自分は何でもできる」
という思い込みに発展していき、趣味を叶えることができた人は、そこで人生のほとんどを達成したような気がして、その力を持って何でもできるのではないかと思い込んでいるようだった。
だから、夢を叶えて小説家になった人間の自殺は、理屈としては別に、理解できないのであった。
なんでもできると思っていると、悩みなど、どこ吹く風だと思う。
人生の中で自分の目標を達成してしまうと、その先どうすればいいのか、普通なら考えるというものだ。
「目標は達成することがすべてだというものだが、段階性のある目標だってあるだろう。一気に最終目標を目標として最初から挙げる人はまずいない。例えば小説家になるという漠然とした目標であっても、まず、
「新人賞に入賞することから始まり、小説家デビュー、そして少しでも長い間売れ続けること、そして有名作家として名前を残せるようになること」
という目標が段階を持ってあるとすれば、
「小説家になる」
という漠然とした目標は、その過程の中にあるものだと言えるだろう。
山口氏の場合は、小説を書いて入選し、小説家になることができた。額面通りに見れてみれば、
「彼は、自分の目標を達成した」
と言えるだろう。
しかし段階的に見れば、その発展途上であることは一目瞭然であり、段階的に見ることができないのが、今までに苛めに遭ったことがあるため、自分をどうしても他人事のように見てしまうという目を持った人間にこそあり得るのではないだろうか。
どうしても、自分が無難でなければ生きていくことができないと、子供の頃から悟ってしまったことで、自覚までもが他人事になってしまっているのだろう。
マスターは、山口氏が自殺をしたとはどうしても思えないという彼女の気持ちが分かった気がした。ただ、それは自分が他人事のようにまわりを見ているからだということにくづいていたのかそうか、本人にも分かっていなかった。
――新人賞を獲得するだけで、本当にすごいことなのに――
と、マスターは絵を描くようになってから、絵画の公募にいくつか応募してみたが、結果が思うようにはいかないことで、誰にも話をしていない。
絵を描いているということですら、一部の人間でしか知らないだろう。
マスターは、自分では、他の人よりも一層深く、人のことを分かっているつもりになっているが、実際にはまったく知らないのだ。
いや、知ろうとしないというべきか、分かっていないということを自分が分かっていないのだ。
鎌倉氏は、マスターの過去もよく知っていた。そして、マスターの性格も、
――もし、もう少しリアルな考えを強く持っていて、自分に対して自信があり、さらにそれを真正面から信じていれば、ちょっと怖かったかも知れないな――
と感じたことがあった。
マスターと話をしていると、その教養と発想には感心させられる。だからこそ、この店に立ち寄るようになったのだが、その性格は最初計り知ることができなかった。
それは、あまりにも自分と似ていないところがいくつもあるわりに、似ているところも多かったからだ。
「似ているところが多いわりに、似ていないところも多い」
と思うのか、
「似ていないところが多いのに、似ているところが多い」
と見るべきなのか、似たような言い回しであるが、その内容はまったく違っている。
作品名:やる気のない鎌倉探偵 作家名:森本晃次