やる気のない鎌倉探偵
そのことについて鎌倉氏が面白いことを言っていた。
「ジャズとクラシックだったら、若者がジャズに走って、ある程度年齢を重ねた人が、クラシックに走るんじゃないかと僕は思っていたんだけど、逆の考えの人も結構いるようなんですよね。その人たちは、別に年齢にはこだわっていないと言っていました。ただ印象として持っているだけだってですね。だから、印象として持っているだけでいいのだとすれば、正解を求めることはない。世の中にはそういう正解を求めなくてもいいことが山ほどあるのに、どうして皆何でもかんでも正解を求めようとするのかって思うようになったんですよ」
と言っていた。
その言葉のどこに信憑性があるのか分からなかったが、何となく理屈は分かった気がした。
マスターが絵画に走ったわけが、この店の雰囲気であったり、絵を見ても分かるからだ。
「私は、最初クラシックしか聴いたことがなかったので、歌謡曲や洋楽派、どうも好きになれなかったんですよ。でも、学校では皆が聴いているので、一応話のネタとして聴いておかないと仲間外れにされてしまう可能性があるんですよ。だから、中学、高校時代までは洋楽なんかも聴いたんですが、大学生になってから、自分のまわりに集まってくる連中は皆クラシックが好きなやつばっかりで、しかも、他の音楽に走らずに、ずっとクラシックばかりを聴いていたと言います。私は恥ずかしくなりました。まわりに影響されて他の音楽を聴き始めた自分がですね。だから、それからはクラシック一本です。それが嵩じてこうやってお店にしてしまうんだから、ちょっと行き過ぎカモ知れないとも思ったけど、これが自分だと思うと、それからは、ああmりブレないようになりました」
と言っていたマスターだったので、マスターが、西洋のお城の絵を描いてみたいと思っていることは分かった。
だが、そこまでになるには、まずデッサンができるようになるのが一番ではないだろうか。
特にこのお店に来る客の中には、芸術家と言われる人も多い。大学教授もよく立ち寄っているし、大学で芸術を専攻している人もよくこの店に来ている。その中には画家の人もいて、
「絵の基本くらいなら、私でよければお教えしましょうか?」
と言ってくれた。
もちろん、基本中の基本を教わるだけだったのだが、まずは基本を知ることであり、そこから先は人から教わるものではない。人から教わったとしても、それは自分の目指す芸術ではない。また、教わったことが正解というわけでもないのだから、基本というものを自分なりに解釈してもいいわけだ。ひょっとしたら、それがパイオニアになるかも知れないからである。
先生の基本とさほど変わらないかも知れないが、マスターが自分の中で基本と考えるもの、まず第一に、バランス出会った
風景画にしても、人物画いわゆる顔の部分にしても、全体を大きく三つから五つに分けることができるのではないだろうか。風景画であれば、空があって、海などの水の部分があって、そして陸がある。顔にしても、おでこから上、花よりも上、そして花より下の部分などと分けることができる。それをどの配分で描くかによって、最初にどこから描き始めるかということも決まってくるのではないだろうか。
これは絵を描いていて気付いたことであるが、
「被写体を上下逆さまに見れば、自分の考えているバランスがまったくしhがったものに感じられる」
というものだった。
風景画などは、普段よりも相当広く感じられる。上下そのままい見れば、水平線の彼方は、ほぼ半分くらいの一にあるように思うが、逆さになるように見ると、空が七対三くらいのわりあいになっていることに気付く。さらに人の顔などはまったく違ったバランスに見える。それを心理学の擁護では「サッチャー錯視」と言われる錯覚だという。
この錯覚は今から四十年前というごく最近に発見されたことであり、今まで誰も何も言っていなかったのが、不思議なくらいである。
サッチャー錯視に関しては最近であるが、風景を逆さまから見るという発想は今に始まったことではない。日本でも、日本三景の一つ、天橋立では、股の間から覗くということが昔から行われているではないか。山の上から、水面に浮かんだ小さな道が続いているのを、股の間を通して逆さに見ると、
「竜が天の昇っていくように見える」
といわれているではないか。
これが、天橋立という名前の由来になったということであれば、本末転倒な気がするが、古来より天橋立は有名で、古事記にも、「天の浮橋」という名称で残っており、そういう意味では日本列島形成時に、一緒にできたものと考えてもいいほど、古いものだということになる。
基本の二つ目は、
「濃淡にある」
と言えるのではないだろうか。
光と影を濃淡で表すというのは前述の通りだが、光と影の発想はバランスとも似たところがあり、さらに比較されるところでもある。光と影がなければ、表か裏か、あるいは、どちらが距離的に近いのかなどの表現ができなくなってしまう。サッチャー錯視や天橋立などのさわぎではないほどの錯覚と言えるのではないだろうか。
真実と事実
濃淡は、ある意味音楽にも相いれる発想ではないだろうか? 光と影というのはいわゆる、
「旋律のアクセント」
と言えるのではにだろうか。
メロディに強弱をつけることで音楽も、その壮大さが変わってくる。その思いは特にクラシックを聴いていると分かってくるものでる。オーケストラのような大人数による旋律は強弱がつけやすい。しかも、その音源を大切にするという発想から、おおきなステージに音響効果が抜群な場所に手の演奏は、強弱をつけるに最高である。
クラシックというのは、交響曲など組曲仕立てになっている。楽章ごとに、組曲ごとに、一章節ごとにテーマに沿った音楽になっていることから、光化影のどちらかを表していると言っても過言ではないだろう。
大きいだけでは、本当の大きさを示すには物足りない。小さい部分をあくまでも小さく目立立ててこそ、全体が見えてくるのだ。影というのは、全体を目立たせ、大きさを曖昧に見せることで、本当の大きさを計り知るための方法を模索するものだと言ってもいいだろう。
第三に、これはマスターが自分で勝手に思い込んでいるものであるが、錯覚という発想が、絵画に息を吹きかけているのではないかと思っている。
どんなに自分の中で創造して描いたとしても、本物に適うはずはない。この発想は、何かをする際に、同じことをずっと続けているのであれば、それは最初に行った人間に適うことではない。
という思いと似ているのではないだろうか。
要するに、
「先駆者が一番偉いのであって、先駆者に適うことはありえない」
という発想に似ている。
どんなに改良を加えたとしても、別のものとして自分が開拓者にならなければ、前の開拓者を超えることはできないということだ。
特に絵というものは、写生という意味では、目の前にあるものを、充実に描き写すというものであれば、物まねでしかない。
作品名:やる気のない鎌倉探偵 作家名:森本晃次