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やる気のない鎌倉探偵

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 マスターは、鎌倉氏が落ち込んでいる時に始めたことがあった。それは絵画だった。
 こういう店をしていると、内装に油絵を購入する機会もある。それまでの絵は、業者にお任せという形にしていたので、店に飾ってある絵に自分の意志が介在したということはない。
 もちろん、
「この絵にしますね」
 ということで、業者から前もっての打診はあるのだが、逆らったことは一度もない。
 実際に店の雰囲気にマッチしていて、抗う必要などどこにあろうかというくらいであった。
 特に店の雰囲気は暗めで、額の部分はスポットライトを当てているという雰囲気なので、油絵も幻想的に見えていた。見方によっては油絵が立体的なリアルさを感じさせ、本当に絵なんだと意識させるくらいになっていたことで、それこそ異様な雰囲気を醸し出していたが、どうしても、
「作られた空間」
 というイメージであり、この雰囲気が自分の望んでいる店の雰囲気なのかということを再認識する時期ではないかと思った。
 マスターは、子供の頃から、どちらかとおいうと不自由なく育った方で、お金持ちの家庭に生まれたというわけではないが、不自由をしたという経験もない。
 そのイメージがあるからか、高尚な趣味に対しては、少し尻込みするタイプであった。
 行動力がないというわけではない。やりたいことさえあれば、いくらでも行動はできるのだと思っていたが、何がやりたいのかということがハッキリとしないので、手を付けることができないというのが本音だった。
 中学、高校時代と、部活をすることもなく、勉強も嫌いではなかったが、そんなに必死にやるわけでもなかった。
「何をやりたいというんだ」
 という意識だけが先行していて、結局見つけることができずに、絶えず中途半端な自分を認識していた。
 その頃のマスターは、
「遠慮こそが自分の信条なのだ」
 とまで思っていたような気がする。
 出しゃばって何かをすると、
「出る釘は打たれる」
 という意識があったのだ。
 小学生の頃は、苛めに遭っていたマスターだった。その理由は今でも分からないが、
「何か見ていて気に入らない」
 という程度の理由だったのではないかと思う。
 そんないじめられっ子だったマスターは、苛めっ子に逆らうことは絶対になかった。
「そのうちに疲れてやめるだろう。下手に逆らうと苛めが人くなるだけで、そんな行動を愚の骨頂というんだろうな」
 と思っていたのだ。
 だから、苛めがなくなった中学時代からも、自分が決して目立つことのないようにして、遠慮こそが信条と思うようになったのだ。それが正しかったのか間違っていたのか、まだ結論は出ていないような気がする。
「ひょっとすると、鎌倉さんが、その答えをもたらしてくれるのではニアか?」
 と感じるようになったが、それも実際に信じていることなのかどうか、自分でもよく分かっていなかった。
 マスターは、最初デッサンから入った。
 いきなり油絵はハードルが高いと思ったし。油絵だけが絵画ではないということは、以前お客からもらったチケットでいった美術館の展示で初めて気づいたことだった。
「鉛筆だけのモノクロ画法で、ここまでリアルに立体感を出せるんだ」
 という思いを感じたのが最初だった。
 絵画の素晴らしさは、やはりまずは有名作家の作品に触れることから始めるのが一番だと思ったのだ。
 絵を見ていると、
「どうしれあんなに立体的に描けるのだろうか?」
 といつも考えてしまうが、デッサンを見ていると、その理由が分かった気がする。
「絵画を立体的に浮き上がらせるには、影が必要なんだ」
 ということである。
「絵の濃淡で影を作り、その影が立体感を演出する」
 それが絵画というものである。
 つまり、表裏をうまくバランスよく使うことが必要で、そこにあざとさがなく、自然に立体感が溢れだしているということが必要なのだ。
 クラシック喫茶をやってみたいという感覚は、中学の頃からあった。小学生の頃、クラシックと接し、他の音楽をほとんど聞くことなく中学生になったマスターは、まわりの皆がポップスやロックを聴いていても、クラシックから離れることはなかった。
「やっぱり、あのオーケストラの奏でる壮大な音楽は、どんなジャンルであろうが、敵わない」
 と思っていたのだ。
 クラシックを聴いていると、浮かんでくる光景は、西洋のお城だった。ライン川なのか、ドナウ川なのか、大きな川のほとりに、そのお城は建っている。川が大きいせいもあってか、川面はまるで湖畔であるかのように、細かい波紋を作って揺れている。
 その揺れを見ていると、風があるのかないのか微妙なくらいで、きっと体感的にはほとんど無風ではないかと思えるほどに思えた。
 森の緑と、空の青さ。川面まで青かったら、せっかくのカラー映像なのに、色の種類が減ってしまうというおかしな理屈から、川面は違う色を想像してしまう。だが。口で表現するには難しいその色は、いくつかの色が混ざっているようで、波紋がそのグラデーションを演出しているかのようだった。
 お城のまわりには、ほとんど緑しか見えない。小高い山の山肌を確認できないのは、それだけ深く内陸部に侵入しているからなのか、それなのに、これだけの川幅を持った広さを思うと、下流まで行けば、そんな光景を見ることができるというのか。
――ひょっとすると、無数に支流があるのかも知れない――
 そう思うと、自然というものは人間が考えているよりも、さらに神秘的で、効率よくできているのかも知れない。
 川は本当に風の勢いだけで流れているのではないかと思うほど、実に静かに流れていた。流れに沿って船はクルージングのごとくゆっくりとまるで湖畔に浮かぶボートのように風にそよいでいる雰囲気だった。
 そんな中をどんなクラシックが一番似合うのかを考えてみた、ワルツのような曲が最初は似合っているように思っていたが、実は交響曲が似合っているような気がする。
 壮大さを感じさせるような曲で、最初に音によって度肝を抜かれるような曲がいいのであるが、思い浮かべた曲として、ドヴォルザークの「新世界より」であったり、ホルストの「惑星」であったりがいいのかと思っていたが、どうもイメージが違うようだ。
 マスターが思い描いた曲は、ベートーヴェンだった。それも「運命」ではなく、「英雄」であった。
 なぜ英雄なのかというと、一つの楽章でいろいろな旋律を感じさせるが、それでいて、一貫している何かを感じさせるところであった。一楽章ごとにテーマを感じさせ、そして、一曲すべてに、大きなテーマがあることを思わせる。
「鎌倉さんなら違う曲を思い浮かべそうな気がする」
 と思っているが、きっともっと癒しの深い曲を選びそうな気がする。
 マスターが英雄を好きだということを常連の人にはそんなに話していないにも関わらず、リクエストのあるのは、なぜか英雄が多い。ベートーヴェンの他の曲を掛けてほしいというリクエストもそれほどなく、マスターもベートーヴェンの他の曲に対しては、さほど好きだというわけではないので、きっとこういう店を運営したり客としてくる人というのは、それなりに似た感性があるのかも知れないと思った。
作品名:やる気のない鎌倉探偵 作家名:森本晃次