短編集101(過去作品)
十パーセントの可能性
十パーセントの可能性
「人間は、自分の能力の十パーセントほどしか発揮できていない」
と言われるが、本当であろうか。
そんな能力などいらないから、五体満足でいられればそれでいいんだと坂田少年は思っていた。いつも夢で見ていたのは野球をしている夢、乾いた快音を残し青空に吸い込まれていく打球を見ながら必死に走っている。手に残った感触は、打球が外野手の頭を超えることを示している。痛い感触ではなく、弾き返すことの何ともいえない心地よい感触だった。
――これが夢だなんて――
坂田少年は、実際にはその感触を知らない。感触はおろか、軟式ボールをバットに当てた経験すらない。軟式野球は憧れだった。だが、その憧れを自分で果たすことはできないのだ。
「一生、歩けなくなる公算が大きいですね」
こんな宣告をまさか自分が受けるなど、考えられなかった。小学校四年生の頃だったか、学校の帰り道、見通しのいい道だった。田舎道であまり車も人の通りも多くない。ただ、歩道もない田んぼのあぜ道に舗装を施した程度で、道幅はそれほど広いとは言えなかった。
道路脇からは、雑草が生い茂っていて、道にはみ出してきている。それを避けながら歩いていると、得てして道にはみ出すように歩くことにもなる。
だからといって、見通しのいい道であることには違いない。だが、車は飛ばしてくる。国道と平行して走っている道であるために、ほとんどの車が近道に使っているのだ。この道を使う人たちは性格的にもせっかちな人が多いに違いない。車の爆音があぜ道に響き渡っている。
その日、坂田少年はクラスメイトの家に遊びに行っていたために、帰りが遅くなってしまった。いつも通るあぜ道だったが、その日は身体にだるさを感じていたせいか、いつもより長く感じられた。
――普段より異様に砂埃が多いな――
西日が遠くの山に隠れかけている時間帯でもあった。風もなく、沈む前に最後の力を振り絞って明るさを導く太陽の光が、全体的にオレンジ色の世界を作り出していた。
――寂しさを感じる時間だ――
あまりこんな時間に歩いたことなどなかった。車さえいなければ、少しゆっくりと歩いていると、いろいろなことを考えられそうな気がした。こんな時間に限って車が飛ばしてくる。夕方も日が暮れるくらいの時間ともなれば、車はまばらだった。
足元を見ながら歩いていた。
――これほど長いとは思ってもみなかった――
坂田少年が見つめているのは、足元から伸びている自分の影だった。元々スマートな坂田少年、影はそれにも増して、餅を引き伸ばしたように長くなっている。棒のように長い影は、
――本当に人間の姿を映しているのか――
と思うほど細長く歪だ。そんなことを考えながら歩いていると、結構歩いてきたのを感じていた。
後ろを振り返って、さらに前を見る。
ちょうどあぜ道の半分くらいは来たであろうか。正面に見える小さな森になっているところが、このあぜ道の終点である。そこから先は住宅街、坂田少年の家も近づいてくるというものだ。
このあたりは郊外にあたるため、住宅地がところどころに点在している。当時、途中がまだ開発されていないところとなると、田んぼのあぜ道のようなところがたくさん残っている。今ではかなり区画整理も行われ、道も整備されてきているので、こういうあぜ道はかなり少なくなっているが、この道だけはずっとそのままになっている。
日が沈む頃になると、車の数もさすがに少なくなっていた。中間くらいまで歩いてくると行き違う車もあまりなく、たまに走ってきても離合するところなど、見ることはなくなっていた。
物心ついてからの坂田少年は、住宅街や、都会ばかりを意識してきた。田舎に住んだこともなければ、実際に田舎があるわけでもない。家族旅行で出かけるところも都会が多く、田舎の風景は電車の窓から見るくらいだった。
車窓から見ても田舎の雰囲気を感じることなどできない。それなら本に載っている写真を見るのと変わらない。しかも電車の揺れとともに走り抜けていく風景、田舎の雰囲気を味わうなど、できっこないではないか。
そういう意味で、本当に田舎の雰囲気を味わったのは、その時が最初だったかも知れない。だが、田舎の雰囲気を味わっているという意識はなかった。歩いていける距離だからであろうか。歩いていける距離に今まで感じたことのない別世界が広がっているなど、なかなか意識できるものではない。
その時に、不思議な感覚があったことは事実だ。それが嫌な予感であったとハッキリと言える。
――後になって考えるからだろうか――
とも感じたが、今の坂田からすれば、その時にハッキリと分かっていたという自分の感覚を信じたくなるのも無理はない。気がつけば病院のベッドで寝ていたのだった。
「先生、気がつきましたわ」
おぼろげな意識の中で、遠くから聞こえてくる声だったが、他は何も聞こえなかった。喧騒とした雰囲気を感じることができるようになったのは、それからしばらくしてからだろう。先生と呼ばれる人がやってきたのは、目の前に白いものがチラチラとしているのを感じたからだ。
その時にはまだハッキリと目の前が見えていたわけではない。音にしてもまるで水の中で聞いているようなぼやけた声が聞こえるだけで、物音一つ感じることができない。きっと、一つだけしか音を認識することができないのだろうと思ったくらいだ。
思ったよりも冷静だったのかも知れない。だが、身体を動かすこともできず、首を回すこともできなかった。
――縛られているのかな――
と思い恐怖が走ったが、縛られているわけではない。そのため、動かすことのできない身体を思うと、却って言い知れぬ恐怖を感じた。
しかし、この恐怖は身体を走り抜ける恐怖とは違い、じわじわと襲ってくるものだ。
――いったいどうなってしまったんだ――
と思いながらも、耳と同じで、同時に他のことを考えられる状態ではないようだった。
――余裕があるようでない瞬間――
逆に、
――ないようである瞬間――
だったのかも知れない。身体にじれったさからのむず痒さを感じるが、決して焦っているわけではない。余裕があるのかないのか、身体の反応と、頭の中が一致しない状況では判断できなかった。
父親と母親が安心しているのが手に取るように分かる。それまでであれば分かるはずのなかったような感覚を味わえた。
――安心してくれているということは親孝行なのかな――
という子供が持つ単純な気持ちも持ち合わせていた。
それが恐ろしい宣告の前触れだとは知らなかった。間違いなく勘が冴えていたはずなので、その時であれば他の人の気持ちも察しがついたはずなのに相手に悟らせないようにしているところなど、医療関係者としてさすがである。
「一生ですか? そんなバカな」
両親の声は、扉を通して表にまで聞こえていた。静かにしなければならない病院だけに、さぞや表にいた人はびっくりしたことだろう。すぐに我に返った父親は、咳払いをして、まだ興奮冷めやらない母親を制したようだが、簡単に冷静になれるものではない。却ってすぐに冷静になった父親に対し、睨みを利かせたくらいである。
作品名:短編集101(過去作品) 作家名:森本晃次