短編集101(過去作品)
すぐ人に助言を頼んだりする方で、発想は素晴らしいものを持っているのだが、いまいち自分の意見に対して自信を持ちきれないところがあるのがマイナス面であった。
そのことは自分でも気にしているようだった。そのくせ、兄に対しては助言を求めようとしない。そこが兄の靖にとって、弟がまだ子供の頃のことを気にしていると感じさせる一番大きな要因であった。
だが、それが弟の遠慮だったことに気付いたのは、かなり後になってからである。
夢が現実になって表れた時、目の前が真っ暗になりそうになったからである。
――まさか決定的瞬間をこの目で見てしまうなんて――
二人がホテルから腕を組んで出てくるのを見かけた。嬉しそうに弟の顔を見上げる妻の美奈子の表情。あんな顔は今までに見たことがなかった。
ひょっとして、自分にもしてくれていたのかも知れないが、
――一緒にいたら楽しくて当然――
と思っていた靖にとって気付かなかっただけなのかも知れない。
――これほど男性を見つめる時の美奈子の目が楽しそうに見えるとは信じられない――
と思いながら、この表情がベッドの中でどれほど妖艶に変わっていったのかを想像してしまう自分に腹が立っていた。
想像などできるものではない。恋愛期間中から、それほど妖艶な感じを受けたことはなかった。それも以前から友達としてずっと一緒にいたという意識があるからだろう。大学に入ってから女性としての意識をするようになったのも、美奈子の方から女性として接してきたからだ。恋愛期間中が一番女性として見ていたのも事実であるが、結婚してからは女性というよりも、パートナーとしての意識の方が強い。まだ新婚気分が抜けていないのもそのせいではないだろうか。
初めて女性に対して感じた嫉妬。これほど腸が煮えくり返るものだとは思わなかったが、同時にこれほどすぐに冷めてしまうものだとも思わなかった。
すぐに冷めてしまう感覚は嫉妬に限ったことではない。今までにも感情的になることはあっても、すぐに冷めてしまうところがあったのは自覚していた。
――熱しやすく、冷めやすい――
無頓着な性格が幸いしていると自分では思っていた。冷めやすい性格というのが、果たしていいのかどうか分からない。しかし、苦しむ時間が少ないというのは、靖にとってはありがたいことだった。
――誘惑は、妻の方からだったのかも知れない――
楽しそうに見つめられている弟の表情はあくまでも無表情。元々ポーカーフェイスの弟なので、いつもの表情だった。もっとも楽しそうな表情をしていたら、靖の心境がどのように変わったか、想像もつかない。表情を見ている限り、弟が何を考えているか分からなかった。
――ひょっとしたら、後悔の念にとらわれているのかも知れないな――
とも感じた。無表情でありながら、目の焦点が合っていないように見える。それは兄の靖でなければ分からない感覚であろう。弟を知る他の人から見れば、本当に無表情にしか見えないに違いない。
池で溺れた時の弟の顔を思い出していた。助けられて病院のベッドの中でずっと天井を眺めていたが、その時も、
――何を考えているか、分からないな――
と思い、気持ち悪く感じたものだ。自責の念に駆られていた靖にとってその表情は恐ろしさでいっぱいだったのを覚えている。
妻の美奈子を責める気持ちにもなることができなかった。明らかに二人に裏切られたという意識があるにもかかわらず、二人を責めることができない。これが靖の性格である。
何かあったら、まず悪いのは自分だと考えるようにしていた靖にとって、目の前の信じられない裏切りも、自分の中にあることが原因であるという考えしかできないのだ。だから弟の場合には、完全に溺れていた弟を置き去りにしてしまった時のトラウマがよみがえってくるのであるし、妻に対しても自分では意識していなかった何かが原因であるように思えてならない。ずっと友達関係でいた間が長かったことが影響していると思えてきた。
そういえば、元々弟の高志の方が、美奈子と親しかった時期もあった。靖が高校に入ってすぐくらいだっただろうか。ちょうど弟の高志が女性に興味を持ち始める年頃に差し掛かった頃だった。
実のお姉さんと弟という雰囲気に見えたので、靖からは見ていて逆に安心できた。いつまでも置き去りをトラウマにしていた靖にとって、弟が他の人に頼ってくれるのはありがたいと思っていたからだ。だが、今から思えばそれが二人の最初の接近だったと思えなくもない。男女の間のことに関しては、ことに疎い靖なので気付かなかっただけで、他の人が見ていればどうだっただろうと思えなくもなかった。
実は、靖と弟の高志は同じ母親からの子供であるが、父親が違う。それを知らされたのは、靖が結婚を決意してからだった。父親は知っていることだが、敢えてそのことを口にしようとはしない。靖から見て尊厳すら感じる父親は、その程度で心が揺らぐ人物ではなかった。詳しい事情を母親が話してくれたが、そんな事情など靖にとって大したことではなかった。
もちろん弟は今でも知らないだろう。
母親にしてみれば黙ったまま靖を一人前の男として見ることができなかったという。靖にとってトラウマを持ってしまった時期まで意識を戻さなければ、きっとその事実をまともに受け入れることはできないだろう。だから余計に事実は事実として受け止めるとして、意識の中では変わることのない思いを持ち続けることにした。そういう意味でも事情など、どうでもいいのだ。
弟との間に果てしない溝を感じるわけが分かったような気がした。他人ほど遠くなく、今までに感じていたほど近くない。どれほど意識が弟として遠くなったのか見当もつかない。だが、弟としての距離に誰かが存在しているのも事実である。やはり、そこにいるのは弟の高志以外には考えられないのだ。
正夢を見せてくれたのは、弟だったのかも知れない。
夢の中に誰かがいた。
桜の木の下で、舞い散る花びらで影になっているが誰かの存在を意識していた。それがもう一人の弟だったのかも知れない。それが、遠く感じている方の弟なのか、それとも今までどおりの距離で感じている弟なのか分からない。妻と不倫をしている弟が夢の中では憎らしく感じられたが、桜の木の下から見つめられている意識があるので、憎らしさが半減していたようにも思える。実に不思議な感覚である。
実際に夢の中で親しかった弟と美奈子をずっと以前に見たことがあるような気がする。じっと木の陰から見ていたように思うのだが、それが今の自分ではないように思えてならない。その木が桜であることに間違いはないだろう。その時は美奈子のことを知らなかったように思う。美奈子と最初に知り合って、
――どこかで見たことがあるような気がする――
と思ったくらいである。
あれは夢の中だったのだろうか? ひょっとして前世だったのでは? どこかで自分の人生が一度途切れてしまったような気がしてならない。
作品名:短編集101(過去作品) 作家名:森本晃次