短編集101(過去作品)
覚えていたいとは思わないが、恐怖の理由が次第に薄れてくることで、恐怖だけが残ってしまうのは気持ちが悪い。寝汗が次第に乾いてくるのを感じるが、濡れたシャツを脱いで、乾いたシャツにはすぐに着替えようと思わないのは、身体に暖かさが戻ってくるのを待っているからだ。
恐怖で汗を掻いている夢をよく見るようになったのは、確かに大学時代成績が悪かったことが一番の原因だろう。だが、その根底には、子供の頃のトラウマを感じる思いが残っていることも否定できない。
――あの時、咄嗟だったとは言え、弟を助けようと池に飛び込む素振りを一旦は見せたような気がする――
足がすくんで、とても飛び込めるわけがない。その状態を誰かに見られていたように感じているのは、今になって感じるからだ。
確かにあの場面では、溺れている弟と、それを助けなければいけないと思って池のほとりにいた靖だけだったはずだ。他の人がいたのに気付いていたのなら、必ず助けを求めていたはずだからだ。
――一体誰だったのだろう――
もし、その視線がなければ、ここまでトラウマとして残っていなかったかも知れない。原因は分からないが、どうしてここまでトラウマとして残ってしまっているのか分からなかったが、視線を思い出すことで、何となくトラウマを引きずっている理由だけは分かった。もちろん、分かっただけでトラウマを解消できるわけはない。だが、その視線は一体何だったのか、夢の中でなら分かっているように思えてならない。
最近靖は、
――もう一人の自分――
という意識が強い。納得行かないことが怒った時に、納得できる回答を自分に与えてくれようとする都合のいい自分の存在である。
いつもいつも都合のいい存在とばかりは言えないが、もう一人の自分の存在が大人になった自分には不可欠であることを知っている。
――大人になるって、そういうことなのかな――
と思うようにもなった。自分で自分を納得させることができるのが大人だとすれば、もう一人の自分は誰にでもいるのかも知れない。
最近の寝汗が、自分に対しての何かの警告であることは分かっていた。そのことに気付いたのは、夢の中に桜の木が出てきたからだった。
桜の木だけは夢から覚めても忘れない。そして桜の木を夢で見た時、その内容もおぼろげながらに覚えている。初めて見るはずの夢でも、
――以前にどこかで見たような――
という気にさせられるのは、夢で見たからなのか、それとも現実で見たからなのか、記憶があるのだから、夢から覚めても覚えているのも納得できるというものである。
夢の中で出てきたのは、弟の高志と、妻の美奈子だった。二人は決して夢を見ている靖に顔を向けようとはしない。どんな表情をしているか分からないのだ。それも当然と言えば当然で、夢の中では潜在意識以上のことを想像できないからだ。二人が一緒にいて、どんな表情をしているかなど、想像できるわけもないし、もちろんしたくもない。
近づいていくことを戸惑っていると、二人は見つめ合っている。横顔は見えているはずなのに、シルエットになっている。光が当たっているわけではないのに、顔がハッキリしないのだ。もし、のっぺらぼうのように薄っすらと影のように暗くなっているのであれば、気持ち悪さが残るはずであるが、気持ち悪さは感じない。ただ、顔を確認することができないというだけだ。一体どういう感覚なのだろう?
――二人は不倫をしているのではないだろうか――
その思いを桜の木が暗示している。桜の木を見る時は、自分にとっての正夢で、夢から覚めても意識として覚えていることが多い夢である。
正夢にはいつももう一人の自分が存在しているが、この夢だけは、夢の主人公は自分ではない。夢を見ている自分がもう一人の自分で、
――では、本当の自分はどこにいるのだろう――
という不思議な感覚を与える夢でもあった。きっと、本当の自分はもう一人の自分からは見えないところにいて、弟と妻の顔を確認できるところにいるのかも知れない。二人を見ていて、どんな気持ちでいるのか分からないが、夢の中とは言え、意識的に気配を消そうとしているに違いない。
妻と弟が仲がいいのは気になっていた。気になっていたが、何も言えなかった。聞いてみたいが怖かったのだ。
――聞くとすればどっちにだ――
と思うのだ。肉親である弟の方が本来であれば聞きやすいのだろう。しかし、トラウマとして残っていることがあるため、到底聞くことなどできるわけがない。
では妻にはどうであろう?
今まで妻に対しては逆らったことがなかった。妻も、靖の考え方を否定したりすることはなく、もし諌められるようなことがあるとすれば、それは、本当に最終的な意識が妻に宿った時である。
――刺激してはいけない――
無意識にもそんな感情になるのも仕方がないだろう。
それも靖の性格だった。
はっきりしないことを口にして、余計な揉め事を起こしたくない。最初は、
――余計な心配をさせたくないんだ――
と感じているはずなのに、最終的には揉め事を起こしたくないと思う前提になっているだけだ。言い訳に近いものがあることで、一足飛びに揉め事に頭が行ってしまうのも靖にとって無理のないことだ。
最近、妻の美貌が気になり始めた。
元々妻を綺麗だと思ったことはあまりなかった。女性としてというよりも、人生のパートナーとして選んだ相手と結婚したという気持ちが強い。もちろん、結婚前から美奈子を抱いていたし、結婚してからも美奈子と愛し合っている。しいて言えば結婚前の方が女として見ていたと思うが、それは恋愛感情がそれだけ深かったと思えば、当然のことではないだろうか。
――他の人から見ればきっと美奈子は美しく見えるんだろうな――
そんな美奈子を妻にできたことを内心では誇らしく思っていた靖だったが、なるべくそのことは誰にも悟られないようにしていた。もちろん、妻の美奈子にもである。
いつ頃からだっただろうか。弟の高志が兄のものを欲しがることが多くなり、靖をドキッとさせたことがあった。
無頓着な性格が功を奏していたのか、ある時期、自分が望まなくとも、いろいろと手に入ることがあった。
――無欲の勝利――
と自分では思っていたが、ある程度気持ちに余裕が出てきた表れだったに違いない。
無頓着が無欲と関係があるのかどうか分からないが、あまり考えすぎると余計な神経をまわりに遣わせてしまうのも事実で、却って無頓着な方がまわりにとっても付き合いやすかったりするに違いない。
弟はそんな兄を見て育っているせいか、逆に細かいことを気にするタイプだった。ジンクスを気にしたり、整理整頓がキチッとしていないと気が済まない。それも自分だけではなく、まわりの人すべてに言えることで、よほどまわりが気を遣ってやらないとピリピリとした雰囲気から脱却はしないだろう。
だが、それも一時的なものだった。弟も中学生になると、あまり兄のものを欲しがることはなくなり、むしろ自分オリジナルのものを作ったりする開発的なことが好きになっていた。
弟は性格的にはあまり自分に自信を持っている方ではない。
作品名:短編集101(過去作品) 作家名:森本晃次