短編集101(過去作品)
不幸中の幸いだったのは、後遺症が残らなかったことだ。医者の話では、精神的なものを含めて、何とも言えない状況という話だったが、頭を打っているわけでもなく、特別な恐怖心が残っているわけでもない。
「本当によかったですね。芯が強いお子さんなんでしょうね」
と医者も話していた。
それから家族全員、弟に対して一目置くようになっていた。最初は尊敬のような目で見ていたに違いないが、次第に違った様相を呈してきたことに気付いたのは、かくいう靖であった。
元々物静かで大人しい弟だったが、大きくなるにつれ、お世辞にも明るい性格とは程遠くなっていった。
一人でいることが多く、学校でも友達がいるのかどうか疑わしい。家に友達から電話が掛かってくることもなく、学校から帰ってきてからも、どこにも出かけず部屋に篭りっきりの時がほとんどだ。
出かけるとしても、誰に声を掛けるまでもなく、気がついたら部屋にいない。もっとも気配がないのだからいてもいなくとも分からないくらいで、フラッと表から帰ってきたのを見て、どこかに出かけていたことを初めて知るくらいだった。
これが池に落ちた時の後遺症なのではないかとも思ったが、元々が暗い性格だったので、事故があろうがなかろうが、変わらないかも知れない。
考えてみれば、池に釣りに出かけるのだって、本当に弟は自分から出かけてきたのかも今から考えれば疑問である。
――兄の命令なので、逆らえない――
という思いがあったのであれば、弟は兄の犠牲者である。しかもそこで事故が起こったのだから、兄としての靖の責任は果てしないものがあるのではないだろうか。
そうは言ってもいつまでも弟のことばかり考えているわけにはいかない。思春期になってまわりのことが気になり始めると、一人前に彼女がほしいと思うようになるのも当たり前というものだった。
弟のことを気にしない時期はそれほど長くはなかった。
気になる女性が現れると、絶えず弟の視線を感じていた。元々無頓着な性格だったのを分かっているのに、人の視線が気になって仕方ない自分が嫌だった。相手が弟でも同じことで、弟だからこそ、
――事故さえなければ――
と自分の浅はかな行為を悔やんでしまう。
弟のことがあったから損得や、善悪というようにすべてを割り切って見るようになったのかも知れない。元々の性格だったとも言えるだろうが、自責の念に駆られる自分が善悪を割り切っている自分を抑えていたようにも思える。靖は自分の中に両極端なものが存在していることに気付いていた。
高校卒業まではなかなか女性と知り合う機会もなく、過ごしてきた。大学受験に必死だったことが自分の中で言い訳になっているのも分かっていたが、無事に合格すると、後は何も心配していなかった。却って、
――これで何でもできる。運も向いてくるはずだ――
と思い込んだことが幸いしたのか、美奈子を彼女として見ることができるようになった。
美奈子の存在は弟の高志にはどのように映っただろう?
弟は相変わらず物静かで、どう見ても彼女がいるようには思えない。もし自分が女だったら、
――こんな人と付き合うようなことはしない――
と思ったに違いない。
だが、兄としての目と、絶えず感じている弟からの視線とを思うと、いろいろ指摘してくれる女性がそばにいてあげられればいいと感じる。
しかし、もうどんなことをしてもあの時の時間に戻ることができないのと同じで、弟の中に芽生えてしまった兄への恨めしい思いは消えることはないだろう。靖はそう信じて疑わなかった。
「後からなら何とでも言えるさ」
と言われてしまえば終わりである。
靖は、余計なことを口にしないのは、先々を自分で勝手に読んでしまうところがあるからだ。話の展開を先読みして、逆らえないと思えば貝のように口を閉ざしてしまう。言い訳が嫌いと言えば格好はいいが、要するに言い込められて反論する自信がないのである。
靖にはそういうところがあった。
言い訳するのが嫌いなのは、元々の性格ではない。小学生の頃までは言い訳をしていた。
低学年までは、自分の考えがまとまらなかったこともあって、言い訳をしなかったが、それも納得できないことはしたくないという性格からである。
だが、納得できないことでもしなければならないと感じ始めると、言い訳をしたくなるもので、特に親に対しての言い訳をしていた。
親からは、
「屁理屈ばかり言わないで」
と、よく言われていたが、母親が近所の人と話をしているのを聞いていると、
――言い訳が多いのは、そっちじゃないか――
と言いたくなるような、腹が立つほど聞いていて気持ちのいいものではない。
それからだった、言い訳をするのが情けなくなり、そのせいで口数も減ってくる。しかも納得の行かないことはしたくないという性格に戻ってしまったこともあって、人から言い込められて、相手が納得の行く言い訳をできるわけがないと、反論することができなくなった。
あまりいい傾向ではないことは分かっているが、元々の性格にプラスして、親を見ていて言い訳をするのが情けないと思うようになったことがそれ以降の靖の性格を形成してしまったようだ。
――その人の性格は、遺伝と環境によって決まるというがまさしくその通りだ――
自分に感じることだった。
寝汗を掻くようになったのは、自分の性格を分かるようになってからと、ほぼ変わらない。自分の性格を贔屓目に見てもいい性格とは言えない。自分で情けないと思っている。
夢というのは、本当の自分を見せるものなのかも知れない。
――夢だったら何でもできる――
と思っている人も多いだろうが、靖は、
――夢だからこそ、潜在意識を飛び越えることはできないんだ――
と考えている。何しろ夢とは潜在意識が見せるものに違いないからだ。
空を飛びたいという思いの夢を見たとして、どこかから飛び降りれば、地面に着く前に目が覚めるのがオチであろう。
――危ない――
と思った瞬間に、意識の中にこのままでは死んでしまうという気持ちが働き、死ぬということが潜在意識の中にないのだから、夢から覚めてしまう。その時に恐怖だけを持って現実の世界に戻ってくるので、飛び降りようとしたところからだけ覚えていて、どうして飛び降りようとしたかは、意識がしっかりしてくる中で次第に忘れていくものだ。
地面が近づくにつれ、加速していく身体は、重力加速度に絶えられず、目を開けていられないことも分かっている。空中にタイムマシンに入り込むような穴が空いて、そこから先は現実の世界というのを横から見ている自分がいたのを意識がしっかりしてくる中で思い出してくる。潜在意識の中の冷静な部分が、もう一人の自分を夢の中に存在させたのかも知れない。
夢から覚めると、そこは自分一人だ。そして目が覚めると、本当に覚えている意識はもう一人の自分の意識になっていることに気づくと、冷静さを取り戻すにつれて、次第に夢の内容を忘れていくのを納得することができる。
作品名:短編集101(過去作品) 作家名:森本晃次