ミソジニー
先生は悲しそうな表情をしていた。おれはそんな先生が見ていられなかった。
杉山が隣でいきなり話し出した。
「えーっと、そういうことで片瀬先生は自己都合で退職することになった。短い間だったけど、みんなも色々とお世話になったかと思う。みんなちゃんと後であいつさしてお礼をするんだぞ。それと、代わりの英語教師が来るまでは、しばらくは3年の英語担当の元橋先生が2年の英語の代理担当になるからな」
その後、生徒たちが真由美先生の方へまるで準備していたかのごとくさっそく笑顔と涙とともに駆け寄り一人一人挨拶やらお礼などをしていた。白々しい・・・。それぞれ一人一人に対して鼻で笑ってやりたかった。こいつらの中にも俺への嫌がらせやいじめに加わったやつらがいるのだろうか?そして・・・そのせいで最終的に先生が学校を辞めざるを得なくなったことを果たして知っているのだろうか?何食わぬ顔で平然と先生にあいさつをしていられるその図太さ・・・。さも何もなかったかのように毅然とした態度をとっている連中・・・。そういった不人情かつ無神経極まりなものひとつひとつに対してどうしようもないくらいの怒りと憎しみの感情が沸き起こってきた。
山村が後ろの席からトントンと右肩を叩いてきた後、俺の方へ体を寄せてきて小声で話しかけてきた。
「おい、結局どういうことだったんだ?お前と先生は何の関係もなかったんだろ?ほかのやつらはみんなデキてるって噂してるけどな・・・俺はお前信じてたからさ。眞口のでっち上げの写真だったんだろ?でっち上げが問題になって先生がクビになっちゃったってこと?」
「さあ・・・」
俺は気のない返事をした。
「もしかしてまさかお前らマジでそういう関係だったの?嘘・・・え?どういうこと?」
山村は面白半分にべらべらとしゃべり出した。
「そんなわけないだろ」
俺はいよいよ山村がうっとおしくなってそうぶっきらぼうに答えた。
「やっぱそうだよな。え、でもさ。じゃあ何なわけ?結局意味わかんねーよ」
「そんなこと知るかよ」
俺はもうどうでもよくなってそう返した。
授業が終わり俺は教室の窓の外からグランドの方を特に何の意味もないがそれとなく眺めた。すると、先生が校舎の出口から出てくる姿が遠く方でかすかに見えた。
それを見ると俺は無意識のうちに足早に校舎の外へと向かって走っていた。
階段を段飛ばしで駆け下りていき、大急ぎで下駄箱で靴を履きかえて、バンっと音をたてながらドアの外に体ごと飛び出した。
先生はまだグランドにいた。
振り返って校舎の建物を感慨深そうに眺めていた。
「先生!」
俺は先生に向かってそう叫んだ。
「蒼太君・・・」
俺は猛スピードで走ってきたので幾分か息が切れかかっていた。
「俺を・・・」
息が少し整い始めてから俺はまた叫んだ。
「先生、俺を置いてかないでよ」
俺は精一杯そう叫んだ。
先生はしばらくのあいだ、はかなげな悲しそうな表情で
俺の方を眺めていた。
「蒼太君・・・元気でね!」
先生はいきなり手を上げながらいつにもまして明るく元気にそう言った。
「先生・・・」
先生はまた少しだけ悲しげな顔をして俺に向かって話し出した。
「蒼太君・・・負けないでね」
俺は力いっぱい叫んだ。
「先生・・・また・・・また会えるよね?」
先生はまたにっこり微笑んでこう言った。
「もちろん」
そして最後にこう言い残して校庭のグランドを去った。
「また・・・また連絡するね」
先生が学校を去ったのは2学期が始まった後の9月の終わり頃だった。
それから一か月以上が立ち、季節は瞬く間に11月に入った。もうすっかり紅葉の季節だった。
先生が学校を去ってからまた俺の中で何かが消去された。
そして、俺の心はまた空虚な世界を彷徨い始めた。
上の空で授業を受けて、購買でパンとジュースを買って一人で昼飯を食って、そして相変わらず部活もせず、さっさと帰宅した。前の自分に戻ってしまった。まるで最初から何事もなかったように。
つい最近のことなのに、先生と過ごした日々はとっくの昔のように感じられた。
あの写真ばら撒き事件以来、眞口のいじめはすっかりなくなった。俺は平和に学校生活を送れている。というのも、学校側もさすがに反省したのか少しだけ事態が改善されるように取り計らってくれたようだった。学校はいじめ問題が公になると評判がガタ落ちになるだけでなく、眞口家と対立し、寄付金がなくなり経営破たんに追い込まれることを恐れていた。だからいじめ問題を隠ぺいしようとした。しかし、眞口がこれ以上いじめを繰り返すならばさすがに黙ってはいられない、と学校側が眞口家と直談判したようだった。そして、教育委員会に公にしないかわりにいじめは今後一切止めるようにと注意勧告をしたらしい。
しかし、眞口の息子がそんな約束を本当に守るとは到底思えなかった。親がヤクザであるがゆえに、それがバックにいる限り怖いものなど何もないのだ。ちょっとくらいまた何かのいじめ問題が発覚したとしても、寄付金を引き上げる、などと学校側を脅せばそんなささいないじめ問題などもみ消すことは容易い。連中にとって息子の仕出かした学校の不始末など脅迫電話一本でどうとでもなるのだ。
でももう眞口は何もしてこなかった。
最初はその意味がよく分からなかった。
だが次第にやつの思惑が見えてきた。
やつは俺に勝利したからだ。
俺のことは停学に追い込むことにはしくじったが、やつの当初からあった計画通り真由美先生は学校を辞め、俺のショックは計り知れないものになった。そして、俺は上の空になり、前の自分に戻ってしまった。眞口はそれを見ていられるだけで大満足だったのだ。
今の俺は、まるで暗闇を永遠と彷徨う生きた屍のようだった。
だからやつはもう俺に何もして来なくなった。
でも、ある日突然俺は変な夢を見た。
暗闇の中で先生と一緒にいたのに、先生がどんどん遠ざかっていく。
そして暗闇の奥の方へと消え去っていく夢を。俺がいくら追いかけても追いかけてもそれに合わせるかのように先生は自分から遠のいていく。
それどころかむしろどんどん離れていってしまうような感じだった。
「先生・・・」
「蒼太君・・・」
「待ってよ、先生」
「蒼太君・・・」
先生は俺の名前を呼んでいるが、どんどん俺から遠ざかっていく。
ついに俺は夢の中で叫んだ。
「先生、俺を置いてかないでよ」
いつかあの校庭のグランドで俺が先生に向かってそう叫んだときと同じように・・・
先生はニコッと微笑みながら俺に最後にこう言った。
「元気でね・・・蒼太君・・・さよなら」
そう言いながら先生は漆黒の闇の中へと消えて行った。
「先生!」
俺はベッドの上で飛び起きた。
「はあ、はあ」
一瞬何が起きたのか頭の整理がつかなかった。
夢・・・?
どうやら暗闇の中で先生に置き去りにされる夢のようだった。
起きた後でもまるで魂を丸ごともぎ取られてしまったかのようなぞっとする感覚が、まだ体の中にかすかに残っていた。
今の俺にとっては悪夢以外の何物でもなかった。
俺の脳裏に不安がよぎった。
先生はこのままだと俺から去って行ってしまう?
俺の元からいなくなってしまう?