泡の世界の謎解き
それを思い出しながら、店の入っているエレベーターの三階に降り立った。目の前にあるクリーニングを見て、今日の忙しさを想像して憂鬱になるのを感じると同時に、まだ誰もいないことで、さらに寒さがこみあげてきたのを感じると、いつものように、踊り場のスイッチを入れた。
真っ暗な中なので、初めて朝に来た人は、懐中電灯を照らしても、スイッチの位置は聞いていたとしても、すぐには、スイッチに一直線で辿り着くことはできないだろう。
彼は、最近、早番が多いので、もう慣れてしまったこともあって、暗いのを怖いと思う暇もなかった。
「世の中には、閉所恐怖症や暗所恐怖症の人がいるというけど、俺だったらどっちだろうか?」
と彼は思った。
高所恐怖症なのは、本人も自覚している通りだが、暗所と閉所の、
「怖いとすればどっちだ?」
と聞かれた時、どう答えればいいのか、すぐには思いつかなかった。
だが、冷静に考えると、ふと思いついたのだ。
「やっぱり暗所だろうな」
ということであった。
理由としては、
「暗い場所だったら、一歩踏み出した時、そこに足場がなくて、奈落の底に一直線に転落していくのを怖いと、最初に感じたからだ」
ということであった。
暗所であれば、次の一歩を踏み出すことができない。それは、奈落の底に落ちる恐怖があるからだ。
それは見えている時であれば、高所恐怖症になるのだが、
「その次は?」
と聞かれると、
「暗いところだ」
と答えるに違いない。
閉所恐怖症もそれなりに理由があって、怖いと思うのだろうが、今のところ、他の恐怖症との共通点を導き出せないから、怖いとは思わない。
もっとも暗所恐怖症は、高所恐怖症を実感していることによって、比較的すぐに気づいた。しかし、閉所の場合は、
「ひょっとすると、暗所恐怖症と結びついているのかも知れない」
と思うのだが、実際に暗所で怖いという、リアルな経験をしたことがないので、自分では分からないのだった。
それが分かるようになってくると、きっと閉所恐怖症も怖いと思うようになり、
「恐怖症の、グランドスラム」
を完成させることができるに違いないと思うことだろう。
今日は、寒さから、余計に暗所が怖いと感じ、本来であれば、密室の踊り場なので、風を感じることもないはずなのだが、その日は、明らかに冷たい風を感じたのだ。
この三階のフロアには、エレベータを降りてから、右と左にそれぞれ、ガラスの自動ドアがあり、電気をつけても、マジックミラーの黒いバージョンという形で、中が見えにくくなっている。中からは、表を見ることができるので、本当にマジックミラーなのだ。
明るさは、踊り場よりも、店に入った方が明るい。店の内部はそれぞれに、同じつくりなのではないかと感じていたが、実際には、隣の店に入ったことはないので、よく分からない。
きっと他の人も隣の店がどのような構造になっているのかまでは知らないだろう。彼はそう感じていた。
そもそも、彼が務めているこの店は、つい最近、一周年記念をしたのだ。ちょうど彼が入った頃から、
「一周年記念があるから、お客さんが少し増えるかもね」
と言われていて、なるほど、思ったよりも多かったような気がした。
一周年記念の割引が終了し、次回の割引券の有効期限くらいまでは、確かに賑わっていたが、客というのは現金なもので、割引がなくなってからは、歴然と客が減っていった。
その頃には、やっと一通りの業務は覚えたので、相当暇になったような錯覚を覚えた。
忙しい時は、考える暇もなく、必死に食らいついて覚えていたが、暇になってしまうと、今度は時間がなかなか経ってくれないという弊害が出てきたのだ。まだ、つい最近は言ったばかりだと思っていたが、実際には、半年近く経っていたのだった。
まず、受付に座って、電話の確認を取る、
まさか、ないとは思うが、夜間の留守電に何も入っていないことを確認し、あとは、サイトの予約状況を確認する。
店のホームページというものは、基本的に、無料案内所などを経営しているところが、性風俗地区を取り仕切る形でサイトを作成している。そこから、店や女の子を検索もでき、いろいろと情報を更新しているのだ。
そのサイトは、この地区だけではなく、全国を網羅している。F県以外の風俗全般も検索できるようになっているのは、ありがたい。
サイトでは、基本的にトップページには、おすすめの女の子、本日出勤者とその時間、そして、女の子の写メ日記、さらには、料金体系や、割引情報、そして、このお店のコンセプトなどを書いていて、それぞれのページに飛べるようになっている。
写メ日記というのは、女の子が書くもので、来てくれたお客さんへのお礼であったり、スケジュールなどを書き込んだりするところで、写メ日記の更新などを見て、お客さんは、どの子がいいかを決めるのに、重要だったりする。
予約方法には、電話予約と、WEB予約というものがある、WEBで予約するのは、二十四時間可能なので、朝来てから確認するのは、スタッフの重要な役目である。
中には女の子の中には急に体調を崩したということで、急遽休みになることもある。その時の対応もスタッフの仕事で、女の子は、写メ日記などに、その事情を説明し、謝罪をしていたりするのだった。
そういう意味で、サイトは重要な情報源であり、確認するのに大切だったりする。いくら、朝は客が少ないとはいえ、電話予約も、お客さんからの確認などもあるだろうから、そのあたりも結構大変だったりもするのだ。
そのあたりくらいまでは、何となくの想像がつくが、ここから先は、なかなか客にはシークレットな部分で、客の知らないところで店側の事情があっても、客に悟られないようにしないといけないだろう。
これは、風俗関係に限ったわけではなく、普通の飲食店などにもよくあることであるが、特に客とのもめごとなどがあれば、他の客に迷惑が掛からないように、そして、なるべく知られないようにしないといけないだろう。
朝一番はそこまではないが、昼前くらいから夜にかけては、女の子の出勤も重なる時間であるし、客からの問い合わせも多い。
トラブルが起きないように、たとえば、出口で客同士がかち合わないようにするとか、いろいろ気を遣うこともある。
しかし、待合室は一つなので、ここでかち合わないようにするのは難しい。そこはしょうがないということであるが、これは聞いた話だが、店によっては、女の子が、待合室まで、客を迎えにいくという店もあるようだ。
ほとんどのお店は、プレイルームの前にあるカーテンの向こうに、女の子がいて、そこで対面するとか、お部屋の前までスタッフが客を連れていって、扉を開ければ、そこで女の子が三つ指ついて、お出迎えなどという店もある。
そこは、さまざまなやり方をする店もあるようなので、客がどのシステムが喜ぶかということも、サービスの一環なのではないだろうか。
その日、彼は一通りの確認を済ませた。一番の客から電話があり、
「五分か、十分くらい前にお邪魔します」
ということだったので、
「お待ちしています」
と答えておいた。