短編集100(過去作品)
スコアをつける女の面影
スコアをつける女の面影
プロ野球を見に行くなど何年ぶりのことだろう。小学生の頃、父親に連れられて見に行ったことは何度かあるが、あまり野球に集中していなかったように思う。おじさんのヤジばかりが目立っていて、真っ黒な空に向って伸びていくタバコの煙が気になっていたことだけは覚えている。
ナイターの照明に照らされたグラウンドは、綺麗に芝が生えていた。内野席に座ることが多く、塁間やマウンドからホームベースまでがハッキリと見える位置だった。
――テレビで見るよりも短く感じるのはなぜだろう――
と感じたものだが、その理由はすぐに分かった。
内野に比べて外野が広く感じていたことが原因だった。スタンドから見ていると球場全体が見渡せる。テレビの角度とは違っていた。
確かにテレビカメラの角度は球場の一番いい位置に設置せれているのかも知れないが、どうしても立体感に欠けるところがある。肉眼で見るとこれほど外野が広く感じるとは思ってもみなかった。
「野球のチケットがあるんだが、どうする?」
営業にまわってきた観戦チケットだった。今までは営業中心に掃けていたようだが、今回は出張社員が多いのと、それほどの人気カードでないことが残ってしまった原因らしい。
持ってきてくれたのは同期入社の坂下だった。営業としてはまだまだだが、我々同期入社の中では一番の成績のいいやつで、出世コースまっしぐらに見えていた。
――我々事務職にもチケットが回ってくるようになったか――
と感じたが、只で貰えるものなら嬉しい。別に今野球は好きではないが、せっかくだから行ってみることにした。
「じゃあ、ありがたくもらっておこう」
チケットを受け取った矢島は、手に取ってマジマジと見てみた。
チケットには球団のマスコットが描かれ、相手チームをやっつけるんだと言わんばかりの応援メッセージが入ったシリーズが記されている。嫌が上にもファンには盛り上がるようになっているのだ。
「矢島は一枚でいいか? 誰か誘う人がいればもう一枚あるが」
とは言ってくれたが、悲しいかな一緒に行ってくれるような人は誰もいない。
「それがいないんだな」
と寂しそうな顔をすると、後ろから
「じゃあ俺が一緒に行こう」
とこれも同期入社の清水が声を掛けてきた。
清水は事務職だが、営業向きではないかと思えた。気さくに誰とでも話ができるし、ハッタリをかましても、
――こいつなら最後まで騙しきれるんじゃないかな――
と思うほど強かな性格に思える。実に失礼な話だが、その中には半分、尊敬の念が入っているのも事実である。
会社から球場までは地下鉄で十分ほどの距離にある。都心部にある球場なので、地下鉄の駅を降りてからそれほど歩くことはない。同じ地下鉄を利用しての通勤なのに、今まであまり意識しなかったのは、帰りに乗る方向が逆だからだ。
逆方向に乗るとさすがにファンが乗客のほとんどを占めていた。サラリーマンよりも応援グッズを持った人たちが多く、いかにも野球観戦に行く姿を見ていると、
――よほど皆暇なんだな――
としか感じなかった。
その時はまだ野球の面白さや楽しさが分かっていなかったのだ。
それは野球に限ったことではない。野球などまだマシな方で、サッカーでいうサポーターのように顔にペイントする人たちの気が知れなかった。
確かにサッカーは野球に比べて全世界的なスポーツで、野球よりも過激である。サポーターも熱血的で、テレビで見ているだけでも熱気が伝わってきそうだ。
野球にしてもそれは同じなのだが、何しろ小学生時代に見た、まだファンが一部だった頃の野球しか知らないので、熱気がどんなものなのか、少なからずの興味があった。
球場入りした時にはまだ試合は始まっていなかった。
会社の定時は五時である。それからすぐに会社を出れば、試合開始には十分に間に合う。球場入りした時には、何とも言えないざわつきがスタンド全体から溢れていた。外野席はある程度埋まってきていたが、内野からバックネット裏にかけては、まだまだ空席が目立っている。
「これが満席になるのかい?」
清水に聞いてみたが、
「どうだろうかな? あまり人気のカードとは言えないからね。でも、ライトスタンドはいつでも満員さ」
と言われるとおりライトスタンドには続々とファンが列を成していた。
我々の入ったのは、一塁側内野指定席である。さすがに指定席というだけあって、背もたれは当然のことながら、座席の横に紙コップを置けるようになっている。ビールでもジュースでもどちらでもいいだろう。
さっそく売り子を呼んで二人で一杯ずつのビールを買った。
「野球観戦にはこれがないとね」
と当たり前のごとくの表情だ。
――俺に任せておけ――
と言わんばかりの表情が憎いほど頼もしい。
場内には、ウグイス嬢による量チームのスターティングメンバーが発表されていた。
「一番センター秋吉。二番セカンド……」
そのたびにスタンドから太鼓や拍手が送られる。内野席からはパラパラだが、外野からは一糸乱れぬ応援を予感させるほどキチンとしている。
刻一刻とプレイボールの時間が迫ってくる。この時間が何とも言えず楽しみだ。その日はチケットを貰っていたので、入場料を払ったわけではないが、もし入場料を払って見に来たのであれば、この時間も楽しみの一つになったに違いない。球場内のざやめきの理由が分かったような気がした。
ホーム側の選手がアナウンスとともに、ベンチ前に集合して花道を作っているチアガールに見送られながら守備位置についている。観客に手を振りながら、その手にはいくつかのボールが持たれていて、守備位置に走っていきながら、スタンドにそのボールを投げ入れる。
それを観客が必死になって取りに行こうとしている。それは女性や子供のファンとは限らない。ビジネススーツに身を包んだサラリーマンも手を伸ばしてボールを追いかける。
――恥ずかしくないのかな――
軽蔑などしているわけではない。それだけの魅力が野球にはあるのだろうが、まだその段階では分からなかった。
「ボールには選手のサインがあるのさ」
と清水が説明してくれたが、なるほど、それならばファンも必死になって取りに行くわけである。これもファンサービスの一環なのだと気がついた。
「このセレモニーは今やどこの球場でも見られるけど、元祖はここなんだぞ」
と清水が教えてくれる。
「それは素晴らしいな」
と改めて感心した。
ここのチームは「共同パイオニアーズ」というチームで、毎年優勝争いに顔を出すチームだ。だが、毎年優勝争いをしながら、優勝チームは毎年変わっている。それも面白い現象なのだが、却ってその方がファンには楽しみなのかも知れない。球団経営的には昔からある老舗チームなので、地道にやってきたのだろう。だがいろいろなイベントやファンサービスのアイデアなどはこのチームからの発祥が多く、それだけスタッフに知恵者がいるに違いない。
矢島は昔からパイオニアという言葉が好きだった。
いわゆる「先駆者」という意味で、まるでこの球団を示しているようではないか。
――何事も始めた人が一番偉いんだ――
作品名:短編集100(過去作品) 作家名:森本晃次