短編集100(過去作品)
小学生から見た大学生の姉は、完全な大人だった。そういう意味でも母親のような存在だったのだが、
――とても逆らえないな――
と感じさせられていた。姉の考えていることはすべて正しいとまで思っていたほどで、まだ異性に興味を持つ前だった勝彦が異性を感じていたとすれば、それは姉にだったに違いない。
異性を気にし始めてから、自分のタイプを思い浮かべた時、瞼の裏に浮かんでくるのは姉の姿だった。目を瞑って他の女性を思い浮かべることができなかったことを最初は寂しく思ったが、姉が自分のタイプの女性なのだと気付くと、目を瞑って浮かんでくる姉の顔が笑顔に満ちていることが嬉しかった。
そんな姉が東京から戻ってきたのは、勝彦が高校二年生の時だった。姉が二十六歳で、男に捨てられたことが原因だったようだが、家族はそれをひた隠しにしていた。
田舎というのは確かに噂が立つと厄介である。近所付き合いもまともにできなくなるし、いわゆる「村八分」状態になることを恐れるのも当たり前と言えば当たり前だ。
「あまりご近所をうろつくんじゃないわよ」
どこまでが本気なのか分からないが、少しきつめの忠告は、半分脅しにも聞こえる。釘を刺すとはまさにこのことだ。
それを聞いて一瞬ムッとした表情になった姉だが、すぐに顔を下に向け、上げることができなくなってしまう。姉が一瞬ムッとした表情をしたのに気付いていたのは勝彦だけだろう。釘を刺している母に悟られないようにしていたのは見ていて分かった。
勝彦はそんな姉がかわいそうで仕方がなかった。そして同時に情けなく思えてもいた。
――どうしてそこまで卑屈にならなければいけないんだ。堂々としていればいいじゃないか――
と思ってみても、当事者ではない勝彦はそれを口にできないもどかしさで、自分までが情けなく感じてしまっていた。
姉はノイローゼのようになっていた。部屋からは一歩も出ず、声を掛けられても生じっかな返事しかできない。東京に出て行った時の姉と同一人物なのかと疑いたくなるほどである。
――田舎を出たい――
と感じた本当の理由はそこにあったのかも知れない。傷心の姉を放って、大学に進学するのは心苦しかったが、それでも熊本市内に決めたのはすぐに帰ってこれるからだった。
熊本市内の生活は、勝彦にとって初めての一人暮らし。夢にまで見た一人暮らしだったが楽しかった。大学生だという開放感もさることながら、熊本市内というのが本人には気に入っていた。
転勤で福岡に出てきた時に、熊本のよさを再認識したのも事実である。住んでいるとなかなかその土地の本当のよさが分からないものだというが、まさしくそのとおり。熊本の商店街、さらには熊本城や水前寺公園、都会のど真ん中に位置する歴史的遺産とも言える場所の素晴らしさを思い出す。
熊本に出てきてから田舎を思い出すことがあったが、田舎に対して素晴らしさを感じることはなかった。どう思い出しても田舎は田舎、出てきてよかったとしか思えない。特に田舎の人の顔を思い出せば思い出すほど、何を考えているか分からない。
「いいよな。俺も帰る田舎があればよかったのにな」
と羨ましがっている友達に対し、
「人間関係って嫌なものだぞ」
というと、
「都会に住んでいると、隣も分からないような冷たいところがあるからな。その点田舎は皆で助け合って生きているって感じがして好きなんだよ」
と言っているが、
「そんなことはないよ。田舎はその結びつきが激しすぎて、却って億劫なものだよ」
本当はもっと適切な言葉で言いたいのだが、思い浮かばない。それだけ漠然としているのだろうが、
「億劫」
という言葉を友達がどういう意識で聞いていたか、どこまで理解したかは分からない。
姉はそんな田舎に帰ってよかったのだろうか?
そのまま都会に住んでいても、まわりに流されていたかも知れないが、死ぬことまではなかったかも知れない。
姉は自殺だった。
最初は家で何とか隠そうとしていたが、狭い田舎でのこと、すぐに噂は広がった。
「あそこのお嬢さん、自殺だったんだって」
「まあ、都会で男に騙されて帰ってきていたらしいんだけど、お気の毒ね」
あちらこちらから聞こえてくる噂だったが、
――お前たちが殺したんじゃないか――
と言いたいくらいだった。まわりの雰囲気にプレッシャーを感じていたのは確かで。親も娘を隠し立てしようとしているそんな雰囲気に息苦しさを感じたのも当たり前かも知れない。
「死にたい時って、病気みたいなものなのかも知れないわね。急に身体の中に入ってきた病原菌が、いつの間にか身体全体に浸透して……」
と言って溜息交じりで姉が話したことがあった。その時は、
「そうかも知れないね。急に死にたくなるっていうこともあるんだろうけど、そんな気持ちになったら、きっと苦しまずに逝けるんじゃないかな」
本当は、
「何をバカなことを言っているんだい」
と言って、諌めなければいけなかったはずなのに、姉という存在が弟の勝彦にとって絶対なものであったこと、そして勝彦自身、自分で感じたことを口にしないと気がすまない性格であることから、口にした言葉だった。
その言葉を聞いて姉は幾分安心したような顔をしていた。まさか、本当に自殺をするなど思ってもいなかったので、自分の話に対し、素直に納得してくれたことを嬉しく感じたほどだ。
その姉が死んだのは、姉が二十九歳の誕生日だった。
「誕生日が命日になるなんて……」
母親は、娘が死んだことに対し、一番の後悔はそのことだったようだ。わざと自殺の日を自分の誕生日にしたのではないかと思えるほどであるが、
「死にたい時って、病気みたいなものなのかも知れないわね。急に身体の中に入ってきた病原菌が、いつの間にか身体全体に浸透して……」
という姉の言葉を思い出すと、自殺の日が誕生日だったことはただの偶然だったのかも知れないとも思える。
偶然だとしても、結局は相手を苦しめる結果になる。そういう偶然が本当は一番恐ろしいのかも知れないと感じる勝彦だった。
勝彦にも死にたいと思うことがあった。
何が原因だというわけではないが、ただ何をするにも億劫で、
――今なら楽に死ねるかも知れない――
と感じたのが一番の理由だった。
確かに楽に死ねるならそれに越したことはない。だが、残された者の気持ちを考えるとそう簡単に死ぬなどという発想が生まれるわけはない。生まれるとすれば、自分が孤独でまわりがまったく見えなくなった時だろう。その時が本当にそうだったのかと聞かれるとハッキリとしないが、孤独な気持ちだったと言われれば否定はできない。
死にたいと思ったから孤独だと感じたのか、孤独だと思ったから死にたいと思ったのか、どちらであっても孤独と死にたいという思いは切っても切り離せない関係にあることは紛れもない事実のようだ。
テレビでものぐさな人を特集していたバラエティ番組があった。貧乏な人の特集をしたことがあったので、その第二段だということだったが、ものぐさな人間が貧乏だとは限らない。貧乏だから孤独ではないというのと同じ発想であるが、では、ものぐさな人間は孤独だと言えるだろうか?
作品名:短編集100(過去作品) 作家名:森本晃次