短編集100(過去作品)
思春期に戻りたいと思ったことが何度あることか。だが、それも叶わぬ夢、何よりも戻ったとしても、また同じ人生を繰り返すに決まっているからである。
「ただいま」
そんなことを考えているうちに娘が帰ってきた。明るい声に思わずホッとしている自分に気付いた勝彦は、心ときめいていた。
「おかえり」
里崎さんが玄関に向って声を掛けた。
途端に明るい声になる。きっといい母親なのだろう。
会社での事務的な話、勝彦との会話、そして家での娘へ掛ける声のトーン、それぞれに特徴があるが、勝彦は娘に掛ける声が一番のお気に入りになった。
「会社でいつもお世話になっている佐川さんよ」
と紹介してくれた。
「いらっしゃいませ。いつも母がお世話になっています」
「いえ、こちらこそ」
思わず声が詰まりそうになった。詰まりそうになった理由は緊張からであるが、その緊張は笑顔と声のトーンが重なって、あまりにも屈託がないところから来ていた。ここまで屈託のない笑顔に緊張するというのは、普段から言葉の裏を読もうと、無意識ながらの気持ちが働いているからなのかも知れない。
部屋に入っていった娘だが、すぐに部屋から出てきて、
「今から熟に行ってきます」
「いってらっしゃい」
とカバンを肩から掛けてスキップを踏むかのように目の前を通り過ぎていく。スカートが風に舞うかのようで、いかにも春を思わせる。そこにはいかにも中学生と思わせる新鮮さがあった。その姿が一番印象に残ったといっても過言ではない。
「今のが娘の玲子です」
と紹介された。
――これからずっと知り合いでいられるような気がするな――
願望を込めた予感が頭をよぎった。それが玲子との最初の出会いとなった。出会いとしてはありきたりなものだが、忘れられないものもあるのだと初めて知ったのだ。
それから数日後、里崎さんから食事のお誘いがあった。なにやら相談もあるというのだった。
ホテルのレストランを予約していて、そこは小高い丘の上にあって、最高の夜景を楽しむことができる。デートスポットとしても人気があり、予約をしていないと、とても席がない。
食事をしながらの相談事というのは、娘のことだった。別に相談相手は勝彦でなくともいいのだろうが、里崎さんとしては、相談できる相手がいないということである。近所付き合いもあまりなく、同年代の知り合いというのも皆東京や大阪に出て行ったらしく、孤独なのだと打ち明けてくれた。本来であれば旦那さんがいてしかるべきなのだが、それも叶わない。きっと数日前の出会いが、里崎さんにとっては印象深いものだったに違いない。
「娘のことでのご相談なんですが、ご迷惑かしら?」
「いえいえ、そんなことは」
と口では答えていたが、勝彦は正直戸惑っていた。人から相談されるようなことは今までになく、聞かれたことにどう答えていいか分からなかったからだ。だが、それも余計な心配だった。相談といっても、所詮女の子の気持ちなど分かるわけもないので、それを分かっての里崎さんの話だった。相槌を打つような答え方でよかった。
グラスワインをゆっくり呑んでいたつもりだったが、気がつけば結構酔いが回っていた。元々すぐに酔いが回る方ではなく、途中から一気に回ってくる方なので、いつも呑み会の時は自分なりにセーブしているが、その時は忘れていた。
「あら、顔が真っ赤ですわよ」
と言われて初めて自覚したくらいで、それまでは緊張感もあってか、酔いが回っていることに気付かなかった。
ちょうど相談事も終わっていたので、安心したのもあるかも知れない。やっと酔いを感じるようになった。
「今日は、佐川さんのお誕生日ですよね?」
「えっ?」
確かに数日前までは誕生日の意識はあったが、途中から忘れていた。それは桜並木で里崎さんと会ったあの日から、頭の奥に封印されていたようだ。それだけこの数日間は今までと違った印象の日々だったようだ。
気持ちが軽やかな数日間だったといってもいい。
まるで青春時代に戻ったような気持ち。それを与えてくれたのは、娘の玲子だっただろう。だが、母親の里崎さんに対する印象が今までとまったく変わってしまったのも事実で、毎日会社で顔を合わせるのが楽しみやら、恥ずかしいやらで、何となく不思議な感覚に陥っていた。
「私、知っていましたのよ。あなたの誕生日」
今までは、
「佐川さん」
と「さん付け」で呼んでいたのに、初めて
「あなた」
と呼ばれてさらに酔いが回ってきそうだった。ここ数日頭の中にあった玲子の印象が吹っ飛んでしまいそうな気持ちになり、一気に里崎さんに引き込まれていく自分を感じていた。
――熟した女性の妖艶な雰囲気――
を感じることで、勝彦の中の男の部分が我慢できないまでになっていた。
「今夜はここにお部屋も取っていますのよ」
と言われた時には、待ってましたとばかりに高ぶった身体と気持ちが最高潮に達していた。当たり前のことのように耳から入ってきた言葉に意識を失いそうだった。
毅然とした態度を取らないといけないと思いながらも、気持ちはすでに雲の上。自分よりも年上と思っただけで、相手にすべてを任せる気持ちになってしまっていたので、毅然とした態度でいられたかどうか自信がない。
「ゆっくりでいいわよ」
記憶にあるのはその言葉だけだった。
何をゆっくりでいいのか分からなかったが、飛んでしまっていた意識の中でゆっくりという言葉だけが妙に頭に残っている。それだけ彼女の方は落ち着いていたのだ。
快感が一気に襲ってきた時、気持ちは別にあったかも知れない。頭のどこかで娘の玲子の姿が見え隠れしていたのは、
――娘にすまない――
という気持ちがあったからだろうか。
里崎さんとはそれだけだった。次の日からは何もなかったかのように振舞っている里崎さんに、
――女ってそんなに淡白になれるものなのだろうか――
と感じたほどだ。
それとも、あの日をなかったことにしたいのだろうか?
勝彦はとてもそんな気にならない。確かに自分の中で後ろめたさがあるのか、記憶の奥に封印してしまおうという意識が働いているのか、あまりにも衝撃的だったので、記憶が本当に飛んでしまったのか肝心なところの記憶はなくなっているが、少なくとも「あの日」を「なかったことに」するなど我慢できない。身体にはまだ温もりと、確かな豊満で柔らかな感触が残っているように思えるからだ。勝彦にとっては、人生にとって忘れられない大切な日の一つであることに間違いなかった。
――二十九歳の誕生日か――
二十九歳という年齢にこれといって思い入れはなかった。しいて言えば勝彦の姉が二十九歳で亡くなったことくらいであろうか。
勝彦にとって姉は母親のような存在でもあった。年齢は十歳近く離れていたので、それも仕方がないことかも知れない。
姉は熊本市内の短大に進み、そのまま就職で東京へ行った。勝彦がまだ小学生の頃で、都会に憧れて出て行ったのだと普通に考えていた。だが、実際は短大時代に付き合っていた男性が東京に就職したので、追いかけていったのだ。
――そういえば姉には一途なところがあったな――
作品名:短編集100(過去作品) 作家名:森本晃次