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短編集100(過去作品)

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 精神的に余裕ができると、却って余計なことを考えてしまうのも人間らしいというべきであろうか。勝彦には大きな悩みがあった。ずっと仕事ばかりをしていたせいもあってか、三十歳前だというのに、彼女の一人もいないことだった。
「やつは、彼女がいなくても平気なんだろうな」
 と勝彦を見ていて思っている人は多いかも知れない。だが、勝彦も立派な成人男性である。彼女がいないことを気にしていた。だが、それをまわりに悟られたくないという気持ちがあったというよりも、仕事に集中していて、そんなことを感じる暇がなかったというべきであろう。
 ある意味勝彦は融通の利かない性格でもある。
――一つのことに集中するとまわりが見えなくなるからな――
 というのはいつも感じていたことである。しかし、それは悪い方の意味で感じていたことで、まさかこんなメリットがあるなど考えてもみなかった。不幸中の幸いとはこのことかも知れない。
 川原を散歩するようになってから半年、やはり桜の咲く頃だったろうか、それまでの寒さから硬くなっていた身体がほぐれてきた頃である。会社の事務員である里崎瑠璃子さんと偶然出会ったのだ。
 暑いよりも寒い方がどちらかというと好きな勝彦だったが、その年の寒波はさすがに参っていた。桜が咲くちょっと前までは雪が降ったりしていて、異常気象といってもいいくらいだろう。
「熊本でここまで雪が降るなんて」
 と誰かが話していたのを覚えている。やっと待ち焦がれた春が来たのだった。
 その日は何となく気持ちがウキウキしていた。待ちに待った桜の季節、散歩を始めてからの念願の桜の季節だった。特にその日は風も心地よく吹いていて、遊歩道は桜吹雪の様相を呈していた。
――何かいいことがありそうだな――
 と思いながら歩いていて出会ったのが里崎瑠璃子さんだった。
 里崎さんは、勝彦よりも六つほど年上だっただろうか。いわゆるお局様と言われる人で、会社ではいつもキリッとしていた。だが、正面から歩いてきた彼女を見るとまるで見違えるほど顔からは笑顔が漏れていた。
 意外なところで恋人に出会ったような顔をしていた。誰かを待ちわびている表情というのはまさしくこういう顔なのだろう。
――それが自分に対して向けられている――
 胸の鼓動が激しくなるのを感じた。
――子供のようなあどけなさ――
 まさしくその言葉がピッタリである。
 里崎さんは、会社ではあまり喋る方ではない。倉庫のパートさんたちは、休憩時間にもなると人目を憚ることなく大声で笑いながら話しているが、里崎さんは彼女たちとは一線を画している。
 勝彦が見ていて倉庫のパートさんは言っちゃ悪いが、
――見苦しい――
 の一言で、おばさんを絵に描いているとはこのことである。
 それに比べて里崎さんはまるで「大和なでしこ」、まわりがどうであれ、自分だけの世界をしっかり持っていて、それが落ち着きを見せている。男性社員も里崎さんだけには一目置いていて、誰も悪くいう人はいない。
 確かに愛想がいいとはお世辞にはいえないかも知れないが、見苦しいよりははるかにマシで、言わなければいけないことはハッキリとしていて、上司からの信頼も厚い。会社にとって必要な人であることに間違いはない。
 勝彦はひそかに憧れを持っていた。
 小さい頃に姉を亡くしている勝彦にとって姉のような存在である里崎さんとまともに会社の中で話すことはなかった。もちろん仕事の話は必要だが、必要以上のこととなるとあまり口にしない里崎さんを見る目が憧れに変わっていったとしても仕方のないことだろう。
「佐川さんが、お散歩されているなんて知りませんでしたわ」
 会社以外で会社の人間に会うことが珍しい勝彦は、苗字で呼ばれることが何となくくすぐったく感じていた。
――会社を一歩離れると、これほど表情が変わるのか――
 と感じるほど、里崎さんの表情には屈託がなかった。
 普段の表情にも屈託はない。だが、それはあまり表情を変えず裏表のない顔ということで、彼女の笑顔が見えるなんて表で会うのもまんざらではないと感じていた。
 しかもまわりは桜並木、運命を感じないわけにもいかなかった。
 最初の会話のきっかけが何だったかなど、すでに忘れてしまった。
「桜が散るのって早いですわね。それだけに美しいとも言えますね」
 というセリフだけが頭に残っている。確かにお局様としては意識があるなら自分に対して皮肉のひとつも出てきて仕方ないだろう。まさか、勝彦の前で話すとは思ってもみなかった。
――それだけ親密感を盛ってくれているのだろうか――
 もしそうであるならば嬉しい限りだ。話が桜の話題から花の話、園芸の話になると、
「今からうちに来ませんか? あまり広い家ではないんですが、よかったらどうぞ」
 普通なら、
「いえ、いきなりは失礼に当たりますから」
 と言って断るのだろうが、その時はまるでその言葉を待っていたかのように二つ返事でオーケーした。
 マンションに娘と二人で暮らしているという。里崎さんが離婚をしたという話は聞いたことがあったが、あくまでも噂。彼女に対しての噂は入社当時いろいろあって、どれも根拠はないのだが、信憑性がありそうで気にはなっていた。里崎さんに妙に興味を抱くのはそのせいもあった。
 住んでいるマンションからも川が見えるという。花見の季節など、ベランダから見下ろす夜桜もいいのだと教えてくれた。
 女性二人で暮らすにはちょうどいいくらいか、部屋が二部屋に、リビングはそれほど広くはない。きれいに片付けられているので、こじんまりとしてるので最初は狭く感じたが、ソファーに座って見渡せば、結構な広さがあることに気付いた。
「娘さんはお出かけなんですか?」
 表から何も知らずに帰ってきた娘は、リビングのソファーに座っている見知らぬ男を見てどう思うだろう? 最初から部屋にいてお邪魔する方が、変な勘ぐりもなくていいのかも知れない。
「ええ、ちょっと友達のところで勉強するって言ってました。でも、本当に勉強なのか疑わしいものだわね」
 と苦笑いをしている。まんざらでもないその表情は、里崎さんが娘のことを信じているどこにでもいる母親であることを表していた。
 自分が中学生の頃、同級生の女の子が皆眩しく見えたものだ。
 男性よりも女性の方が発育が早いというのは目に見えている。胸の膨らみ、お尻の形、気持ちを揺さぶるに十分な身体をどんな目で見ていたか怖い気もするが、思春期の男の子としては、仕方がないことである。今だったら変態と言われるかも知れないが、当時は許されただろう。
 背伸びしたい年頃であることはよく分かっている。
 勝彦は常々、
――子供の心を持った大人になりたい――
 と思っていることもあって、学生の気持ちを一番理解できるのは自分だと思っていたくらいである。
 だが、その反面、自分にないものをたくさん持っている思春期の子供たちが羨ましくもある。
――どうにも叶わないや――
 と思いながら、女子中学生を眺めながらムラムラすることもあったくらいだ。
 もちろんそんなことは口が裂けても言えるはずはない。自分一人の胸に収めて、密かに一人で思いに耽っている時間が楽しみの一つだったりする。
作品名:短編集100(過去作品) 作家名:森本晃次