短編集99(過去作品)
蜻蛉団地
蜻蛉団地
「お待たせいたしました。蜻蛉団地行きバスが発車いたします」
少し年配の女性のアナウンスがバス内に響く。聞き慣れたアナウンスである。あらかじめ録音されたものを毎日流しているだけなので、聞き慣れているのは当たり前だ。ただ、その日純一はかなり泥酔していて、アナウンスを聞いたかどうか後から聞かれても、おぼろげにしか覚えていないはずだ。
いつも乗るバスは循環バスである。駅前ロータリーから発車して、行き先は蜻蛉団地行きになっているが、蜻蛉団地に近づいてくると、
「蜻蛉団地経由土橋駅前行き」
に変わってしまう。
もっとも純一の住んでいる土橋市というのは、あまり広いところではなく、五キロ四方のところに住民が密集して住んでいるという住宅地である。その中でも蜻蛉団地は昔からある団地で、今では団地のまわりに一軒家やマンションが立ち並び、目立つこともなくなった。
いや、ある意味ではレトロな雰囲気を醸し出すという意味で、目立っているかも知れない。土橋駅から二駅ほどのところにある工業地帯への通勤で二十年くらい前までは賑わっていたことは確かだった。
二十年前といえば、まだ中学生だった純一だが、その頃のことは思い出すと、まだ昨日のことのように思い出すことができる。
純一が今のマンションに引っ越してきたのがちょうどその頃だった。
マンションができ始め、分譲住宅が整備され始めた頃で、純一の父親が、思い切って買ったのだ。
父親は公務員で、安定した給料が見込めるということで購入したのだが、さすがに二十年経ってくると、まわりに新しいものがたくさんできてきて、最初の頃に感じた艶やかさも薄れてくる。
あまり純一は気にしていなかったが、さすがに団地を見ていると、
――あと十年もすれば、レトロな仲間入りをするんじゃないだろうか――
と感じるほどだった。
中学時代の友達には、蜻蛉団地に住んでいる人も多かった。何度か遊びに行ったが、そのたびに古さに圧倒される気持ちになった。
元々今のところに引っ越してくる前は、木造の平屋に住んでいたのだが、それでも蜻蛉団地よりも数倍よかったように思う。仮にも一軒家というだけで、団地とは雲泥の差を感じていたのだ。
さすがにマンションに引っ越してそれまでの一軒家から比べれば、設備から明るさ、すべてが新しいもので、何よりも新築の匂いが気に入っていた。新築の匂いを嫌がる人もいると父親から教えられたが、そんなものは信じられなかった。
一番最初に戸惑ったのはトイレだった。それまでは木造家屋の和式便所で、マンションは洋式便所である。学校などの施設はまだ古く、和式で統一されていたので、和式しか利用したことがなかった。だが、それも慣れるまでで、慣れてくれば洋式の方が断然便利だった。
――新しいものには慣れるまでが大変だが、慣れてしまうと結構便利なものが多いんだ――
と思うようになっていた。
蜻蛉団地に住んでいた友達が遊びにくることもあったが、彼らの目的は新しいもの見たさであったようだ。そして帰りには十人が十人とも、その新しさに圧倒され、最初に感じていた好奇心が麻痺してしまうほどのカルチャーショックを感じたに違いない。子供心にちょっとした優越感に浸っていたのを今でも思い出す。
新旧の建物が入り乱れている土橋市は、ある意味では貧富の差が激しい街でもあった。新しいものが増え始めているというイメージが他の市の住民に、
――新興住宅地――
としてのイメージを植え付け、ちょうど引っ越した時期というのは、マスコミなどでもいろいろと取り上げられ、市として一番輝いていた時期だったのかも知れない。中学生でもそのことは分かっていて、だんだんと変わりゆく街を小高い丘の上にある学校から見つめていたものだ。
高校は土橋市の学校を選ばなかった。
成績から考えて土橋市の隣街にある私立高校に入学した。通学はバスから電車乗り継ぎであった。その時に初めて循環バスを通学に利用したが、循環バスのために、朝は毎日蜻蛉団地を見ながらの通学だった。
蜻蛉団地から人がかなり乗ってきて、駅に着く頃には通勤通学で立っている人も多く、さながら朝のラッシュである。純一が乗るバス停ではまだ人はあまりいないので余裕で座っていける。純一には指定席が決まっていた。
一番前の運転手と反対側は空いていた。乗客が少ない間は、皆暗黙の了解でそれぞれ指定席が決まっている。純一は、前が一番まともに見える席が好きで、空いていることを幸いに、必ずそこに座るようにしている。
この席には利点があった。出口が目の前ということである。駅に着いて一番最初に降りれるのはありがたいことで、駅が近づいてきて頃合いを見計らった頃に立ち上がればいい。
いつも同じ光景を見続けてきたが、少しずつ変わっていくのも感じていた。車の数が少しずつ増えてきている。毎日同じ光景を見ているとなかなか気付かないものだが、一ヶ月くらいを区切って見てみれば明らかに車の量が増えてきていることに気付く。
――それだけ土橋市の住人が増えてきているということなんだな――
自分で勝手に納得していたが間違いではないだろう。
それよりもバスに乗る人があまり増えてこない方が最初は不思議だった。だが、土橋市にいち早く目をつけて引っ越してきた人たちよりもじっくりと住宅の品定めをして引っ越してきた人たちの方がリッチなのかも知れない。それだけいろいろと物色できるほどの金銭的な余裕があったからだろう。そんな人たちだから、車を持っているのも当然で、マイカー通勤など当たり前である。
そういえば学校にも親の車で送ってくれる人も増えてきて、帰りだけはバスで帰るなどということもあるようだ。ただ、土橋市内の学校に通っている人は徒歩で通えるので、帰りは歩いて帰る人も多いことだろう。
循環バスを利用している人は、以前からの土橋市の住人たちである。
もちろん蜻蛉団地を中心に、学生やサラリーマンが多い。当然サラリーマンの多くは隣街の工業団地への通勤であるが、最近はその隣に流通団地もできて、サービス業や、小売業の人も多いということを、高校に入学して聞かされた。ちょうど高校はその流通団地の近くにあるのだ。
この土地に住み始めて二十年、だが、純一はずっとこの土地に住んでいたわけではない。高校を卒業して、大学へ進学したが、大学は都心部にある大学に入学した。とても通学できる距離ではなく、学校の近くに一人暮らしをすることになった。
学生アパートというよりはコーポに近い造りで、結構新しい建物に住めることになった。ワンルームマンションのようなものも考えたが、少し高めであるということ、そして、何よりも部屋がそれぞれに別れている方が安心できるというのが決めてとなって部屋を探した。
二DKというのは少し贅沢かも知れないが、親の意見と純一の意見が一致して、結構部屋探しに時間を掛けることなく決めることができた。
作品名:短編集99(過去作品) 作家名:森本晃次