短編集99(過去作品)
小学生時代はそれでもよかった。別に人と違っていないと我慢できないわけではなかったが、ただ、目の前で誰かが表彰されたりするのを見ると、やりきれない気持ちだった。どうしてそんな気持ちになったのか、分かってきたのは中学になってからだった。表彰されている人が羨ましいのではなく、むしろ、表彰されている人を見て、皆が讃えている姿を見るのが嫌だったのだ。そこに集団意識を感じ、人と同じでは嫌だという実感がわいてきたのだった。
少しずつ目立とうという気持ちが表に出てきた。人が話した後に少しずつ何かを言いたくなる。そんな気持ちに自然になってきた。悪いことだという意識もなく、思ったことが口から出てくる。むしろ考えが自然と口から出てくることが嬉しかったくらいだ。
「お前、いちいちうるさいよ」
「えっ、何?」
最初は自分のことを言われているとは思ってもみなかった。
――そのうちに何か言われるのでは――
と思っていたが、それは最初の頃のことで、誰からも言われないのをいいことに、一言多いという意識はまったくなくなっていた頃だっただけにたまらない。一言多いという感覚はすっかり麻痺していたからだ。
後から考えれば、皆我慢していたに違いない。最初から胡散臭いと思っていたはずなのに、
――本人が気付くだろう――
という思いか、あるいは、
――自分が言わなくとも誰かが言うだろう――
という思いがあったに違いない。ある意味、後者は集団意識の賜物で、隆文にとってはありがたくない忠告であった。そう考えると、無性に腹も立ってくるというものである。
自分のことは棚に上げて、まわりが嫌になる方が先だった。自分が可愛いからではなく、なるべく自分のことを先に考えないようにしていた意識がそうさせたのだ。自分のことを先に考えてしまうのがいいか悪いかは別にして、他人が集団意識の中にいるのであれば、自分はその輪の中に入りたくないという思いが強くなる。
そのくせ、被害妄想に襲われることが多かった。テレビドラマの影響かも知れない。一人で孤独な青年を主人公とするテレビドラマをよく見ていた。集団の中に入りきれないのを見ていて、
――じれったいな――
と思ってしまう。
テレビドラマの主人公を見ていると、自分にダブらせて見ているはずなのに、なぜ集団に入っていけない主人公をじれったく感じるのか最初は分からなかった。
――ドラマと現実は違うんだ――
今さらのことなのだが、そのことに気付くまでにしばらく掛かった。ドラマのような人たちばかりがまわりにいれば、隆文だって集団の中に入ったかも知れない。だが、実際にまわりが自分を見る目が冷ややかで、テレビドラマのように主人公を助けようという雰囲気のかけらも感じない。
――そんなにうまくいくものか――
世の中はそんなに甘くないという言葉を何度も反芻してみる。時代劇だってそうではないか。有名なところでは水戸黄門。あれだって、お忍びで旅をしている副将軍、途中は旅の隠居として正体をバラすことなく悪政に携わっていく。そして最後には悪を懲らしめるために正体をバラし、胸のすくラストを迎えるのである。これこそ日本人の心を鋭く抉るようなストーリーではないか。
だが、考えてみれば絶対的な権力を正義の名の下に使っているから絵になるのである。それが悪に加担してしまえばまったく違った展開になって、ドラマにはならないだろう。すべてが紙一重である。
現実として考えるならば、後者の方がありえそうである。世の中そんなに甘くないから却ってドラマになり、大衆の心を捉えることができるのだろう。しょっちゅう水戸黄門のような話が横行していれば、ドラマになることもないに違いない。そういいながら隆文もドラマを見てしまうが、見ている間だけの感動である。ドラマが終わってしまえば、見てしまったことを後悔することもあるほどで、一気に冷静になってしまう自分を情けなくも思うほどだった。
――水戸黄門を見ているなんて、他の人には言えないな――
時代劇自体、あまり若者が見るものではないという意識がある。偏見かも知れないが、恥ずかしくてまわりの人に言えるものではない。
時代背景のせいもあるかも知れないが、水戸黄門だけは、自分に置き換えて見ることができない。なのにどうしてこれほど集中して見てしまうのか自分でも分からない。いくら若い者は見ないだろうという意識があっても、見ている人はまず間違いなく同じ思いで見ているはずである。それこそ集団意識とは言えないだろうか。一人で冷静になって考えると見てしまった自分が情けなくなるのはそのせいである。
大学の頃からその感覚はあった。その頃から、自分の中にもう一人いるような気がしてならなくなっていた。
自分が二重人格ではないだろうかという思いを抱いたのはもっと前からだった。集団意識を嫌う中で、集団の中にいる自分を想像してみることがあったからだ。だが、集団の中にいる瞬間というのは一瞬で、すぐに打ち消してしまう。集団の中にいる自分を想像することは不可能に近かった。
集団の中にいる自分を意識し始めると、そこには被害妄想の自分がいた。最初一瞬だけしか意識することのなかった頃でも、被害妄想の塊の自分だという意識はあった。ただそれだけだったのだ。
集団の中にいることを嫌っているはずなのに、被害妄想の中にいる自分が見えてくると、同情してしまっているのに気付く時がある。
被害妄想というのは、その中にいると、自分を庇おうとする気持ちが前面にあり、まわりから隔絶しようという気持ちよりも、むしろまわりから責められている自分を意識することで、自分をかわいそうだと思う意識が先に立っている。自分をかわいそうだと思う気持ちが快感になっている。
自分の中に溜まっているフラストレーションを、まわりに向けることが被害妄想でもある。
隆文はどちらかというと女性と知り合うことが多い方かも知れない。大学時代から合コンに誘われることは多かった。だが、それは人数合わせが目的で、隆文にもそれは分かっていた。それでも出席するのは、何かのハプニングを望んでいるからだろう。
ハプニングというと、大学一年生の頃だっただろうか、一度一人で旅行に出たことがあった。
泊まるところを決めることなく出かけたので、最初の夜はビジネスホテルに一泊した。元々その旅行自体、前の日までは予定にも入れていなかったことで、朝起きて、いきなり旅行を思いついたのだった。
隆文は思いつきで行動することが多かった。特に大学時代のように時間があって、気持ちにも余裕のある時は思い付きが多い。
気持ちに余裕があると、ロクなことを考えないと常々思っている隆文はどうしても衝動で行動することが多くなるというわけである。旅行などが、一番いいのかも知れない。
その日のビジネスホテルは、平日ということもあり、さすがにビジネスマンが多かった。ビジネスホテルに泊まるというのはそれまでに経験がないわけではなかった。大学入試の時に泊まったことがあったからだ。
だが、その時とは精神的にかなり違う。追い詰められている心境ではないことが、これほどの開放感を生むとは思ってもいなかった。
作品名:短編集99(過去作品) 作家名:森本晃次