短編集99(過去作品)
純一の家は、蜻蛉団地から少し入った住宅街にある。蜻蛉団地と住宅街の間がちょうど小学生時代の頃まで住んでいた地域で、今は区画整理計画が進んでいるところでもあった。都心部からの幹線道路が伸びてきて、都心部のベッドタウンとしての土橋市にとって、ちょうど今が都市開発の目的達成に大きな礎を築くにふさわしい時期であった。
――暗くて見えないけど、このあたりは田園風景の広がっているあたりだな――
と思いながら見つめていると、暗闇に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
暗闇を見るのは嫌いではない。何でも吸い込んでしまいそうな暗闇は、怖くもあるが、どこか自虐的な自分を癒してくれそうに思うこともある。自虐性があるなど思ったこともなかった純一が、初めて車窓からの暗闇を見た時に感じた気持ち悪さは今でも忘れない。
綺麗に窓は閉まっているのに、どこからかすきま風を感じる。バスの中の明るさが変わっているはずもないのに、最初に感じていた明らかにより暗さを感じる。明るいところに出てくると明るさが復活することを思えば錯覚以外の何者でもないはずなのに、それを錯覚だと思い切れない自分がいる。
真っ暗な中でバスに乗っている時、純一にはおかしなくせがあった。
田園風景の向こうには山が見える。連山になっていて、ちょうど土橋市あたりから繋がっている山で、冬になると雪がずっと積もっているようなほどの高さである。
最高峰が土橋市から近いことから、登山口行きのバスが土橋駅から出ている。蜻蛉団地行きのバスとは少し方向が違っているのだが、その山が純一には気になって仕方がなかった。
真っ暗になればなるほど気になるもので、以前遅くなって他の乗客が降りてしまった後にボンヤリと車窓を見ていたことがあった。その日は満月の日で月明かりが綺麗だったことを覚えている。
その月の位置というのが印象に残っているのだ。
ちょうど山肌を照らす位置にあり、まわりの雲を浮き上がらせるほどの明るさを放っていた月が山肌に立体感を与えていた。その光景を今でも目を瞑れば瞼の裏に思い浮かべることができる。
それからだった。どんなに真っ暗であっても、山が気になってしまう。見えるはずのない山に集中してしまうことが多くなって、見ているという意識がない時でも、気がつくと山を見ていてハッとしてしまっていた。
このバスが循環バスだということが却って意識させてしまう。土橋市というところ、中心部はビルなどが立っているがさすがに住宅地、すぐに昔ながらの田園風景が広がっている。少し走れば住宅地やマンションが広がってくるのだが、それまでは田園風景だ。
だがそれは昼間に感じることだった。夜真っ暗な中でバスに乗っていると、なかなか住宅地まで時間が掛かってしまっている。昼と夜の違いだといってしまえばそれまでなのだろうが、それだけではない。
――きっと山を見ているからなんだろうな――
見えもしない山を見続けていると、暗闇に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥ってしまう。昼間であればかなり遠いと思って見ている山が、まるで手を伸ばせば届くのではないかと思えるほどに近く感じる錯覚は、却ってバスの運行をゆっくりに感じさせてしまうのであろう。気がつけば、ずっと同じ光景を見続けている。
我に返って身近を見ていると、さすがに毎日乗っているだけにどのあたりを走っているかなど一目瞭然である。
――まだこのあたりを走っているのか――
と感じさせ、見えていないのに、見えているつもりでさらに視線を山に集中させる。
乗客がいる時は、いつも正面ばかりを見ている。いくつ目の信号を渡り、いくつの角を曲がるかなど、正面を向いていれば目を瞑っていても分かるくらい毎日乗っている路線である。
だが、山を気にし始めるようになってからは、それが分からなくなった。山を気にするのは乗客がいつもよりも少ない時間の時で、月に数回だけのはずなのに、
――まるで毎日気にしているような気がするな――
と思えるほど気がかりなのだろう。
今まで遅くなるのは仕事が長引いてしまって遅くなることが多い。なかなかさばけないというよりも、実際に忙しくて、ある意味充実感に浸りながらの心地よい疲れといってもいいだろう。
最初は仕事で残業するなど信じられないほど忙しい部署ではなかったが、上司が辞職したことで、しわ寄せが部下に来てしまった。部長から皆にハッパをかけられ、怒られることもあるが、励まされることが多い部長の操縦術の手腕はさすがと言えるくらい社員のやる気を即していた。
意外とそういう上司の考え方には純一は敏感だった。
――うまく利用しやがって――
と感じなくもなかったが、やる気を即すようにおだてられて嫌な気がするわけもない。元々純一はおだてに弱い方だった。
「おだてられて実力が出せるなら、それだって立派な実力じゃないのかな」
と同僚にも話したことがある。以前の上司が怒鳴るだけで、しかも自分からは何もしようとしなかった人だったことで同僚と度々愚痴をこぼすために呑みに付き合ったこともあった。その時の気持ちである。
純一はあまり愚痴をこぼさない方だが、人の愚痴を聞くのは嫌いではない。
――代弁してくれているんだ――
と思えるからで、愚痴自体も悪いことだとは思っていなかった。気持ちにわだかまりがあるのを発散させずに溜め込んでしまう方がよほど悪いことだと思っていたからである。
愚痴を聞いて呑んで帰ることが多かった頃も同じような時間になっていたが、その頃は山を気にするようなことはなかった。
山を気にするようになったのは、仕事で充実感を感じるようになってからである。それまでは定時に終わるのが充実感だと思っていた。定時に終われるだけの仕事量を順調にこなしている証拠だからである。
循環バスということをその時にも思い知らされる。どこから見ても山は同じ距離に感じ、最高峰とされるところは見えていなくても、大体分かっているつもりである。
その日、かなり酔っていたせいもあってか、気がつけば眠ってしまっていて、気がつけば蜻蛉団地が見えていた。
――そろそろ降りる用意をするかな――
と思ったが、どうも様子がおかしい。いつも見えているはずの山が見えないのだ。
おもむろに反対方向を見る。そこにはいつもの風景が佇んでいるではないか。何と寝過ごしてしまって、循環バスが駅の方へと戻ってきているところだった。
いつもなら起こしてくれるはずの運転手なので安心していたが、どうしたことなのか。運転手を見ると、その横顔は普段と違い、正面を見たまま、こちらを振り返ろうとしない。声を掛けられるような雰囲気ではないのだ。
――何かがいつもと違っているようだ――
と感じるが、何が違っているのか分からない。
――とにかく降りないと――
ブザーを鳴らし、バスから降りる。ちょうどそこは蜻蛉団地入り口のバス停だった。
作品名:短編集99(過去作品) 作家名:森本晃次