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三すくみによる結界

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 確かに上から見た方が下から見上げたよりも遠くに見えると錯覚してしまうという意識はあったが、ここまで違って感じるのは、この男性との教理が微妙に自分が思っている感覚と立場が違えば、変わってくるのではないかと思えた。錯覚が錯覚ではなくなり、それが真実ではないかという意識をもたらす。それこそが錯覚であり、それが目に見えているのであれば、錯視ということになる。
 上から見下ろしている彼は、つかさを見て笑っているような気がした。つかさも笑い返す。そこには上下関係は存在しない。つまりは従属関係はありえないということを示している。
 つかさは今までの自分と関わりになった人の中で、何人に従属関係を感じていたことだろう。むしろ従属関係のない相手が果たしていたのかどうか、それすら覚えていない。
 ということは、それだけ今までに友達と言える相手がいなかったとも言える。友達がいなければ、自分に関係のある人は、これまで育ててくれた親であり、学生時代であれば、担任を始めとする教師連中。就職してからは、上司と、つかさにとっては、「従」を感じる相手ばかりではないか。
 大学時代にはそれなりに友達がいたような気がした。彼ら、彼女たちと従属関係にあったとは思えないが、果たしてそうだったのだろうか? つかさは気にしなくても、相手に従属を感じさせたり、逆に相手は気もしていない人なのに、つかさの方で勝手に従属を求めてみたりと、つかさの中での人間関係という者には、必ず従属が付きまとっていたような気がする。
 その人たちと、どのあたりから従属関係を感じていたというのだろう? 友達になるには、相手の性格や自分との相性で、その時間はまちまちだっただろう。つまりは、タイミングの問題で、友達になれるための呼吸というものがあり、それを逃すとなかなかそこからの復活は難しい。それを思うと、友達になるためには、
「時間よりもタイミング」
 を図る必要はあるのだろう。
 だが逆にその相手との従属関係になる場合は、時間が問題ではないかと思う。相手との関係を距離という形で図るのが従属関係だと考えると、そこにタイミングという考え方はなく、すべて時間によって支配される時間がすべてに優先するのではないかという考え方だ。
「時間を最優先にした距離で相手との従属が決まる」
 と言えるのではないだろうか。
 つかさは、この時に、お互いに何かを意識させられたこの相手とを、
「従属関係に関係に身を置きたい」
 と考えていたわけではないはずなのだが、微妙な距離感を感じてしまうと、上から見た感覚と下から見上げた感覚の違いが、二人の本当の距離ではないかと思い、
――どうやら私は彼に対して、従ってしまうという考えを持ってしまったのではないか――
 と考えるようになった。
 しかし、先ほどの錯覚は、よく考えれば本当の錯覚であった。上から見た時には、高さの恐怖も繋がることで、遠くに見え、下から見ると、その前の上から見た光景が残像として残っているので、余計に近くに感じてしまう。それは普通本能で分かるはずだと思うのに、その時分からなかったということは、最初からその人に対して興味を持った段階から、従属の関係しか感じていなかったということであろう。
 興味を持ったのは、言わずと知れば、前の日の後楽園で見かけた時に、見えなかった影である。
 その印象が強烈なインスピレーションを与え、恐怖を煽ったのだ。その世に見た夢で、すでに忘れられなくなってしまっているのを感じると、何の根拠もないのに、井倉洞でその人を見るという妄想に駆られるようになった。
 その妄想が功を奏したとでもいうのか、本当にその人を見てしまった。その時点から、もうつかさの中で、疑いようのない従属関係が生まれてしまったに違いないのだ。
「だけど、待てよ?」
 とつかさは、ふと我に返った。
 今まで従属関係を感じてきた相手には、もう一人、対になる人がいて、その人とのたちとの間に繰り広げられた従属関係は、
「三すくみ」
 という関係を形成していたのではないだろうか。
 それを思い出すと、つかさは今回出会った相手に従属関係を抱いて、本当にいいのか、考えてしまうのだった。
 つかさは、子供の頃から気になる人を見かければ、偶然なのだろうが、何度か出会うということがあった。今回もどこかで出会いそうな予感があったのだが、まさかこんな翌日に、まったく違う場所で出会うなど、思ってもみなかった。
 今まで気になる人と出会った時は、時間は違っていたが、同じ場所だった。これにしても別の時間だということで、タイミングとしての偶然なのだろうが、今度の場合は、場所も違えば時間も違う。ただの偶然として解釈できることではない気がする。
 しかも、幻影として考えたとしても、同じ人間がまったくあんなに素早く別の場所で診れるなど、不思議なことだった。
 だが、逆に彼の立場から考えればどうだろう? 彼がもしつかさを意識しているのだとすれば、自分の行動スピードからは考えられないタイミングで姿を現すのだ。相手も気持ち悪いと思っているかも知れない。
 それを考えた時、つかさは慣性の法則を思い出した。
 例えば電車などの「動いている密室」に乗っている時、飛び上がればその着地点は、電車という密室の中での出来事になる。つまりは、表に対していくら物体が移動しているとしても、垂直に飛び上がれば、着地点は飛び上がった場所なのである。
 この理屈は、普通であれば、列車が動いているので、表の世界とを一緒に考えれば、着地点はかなり後ろにずれるはずなのに、そうはならない。
「密室の中で繰り広げられるスピードというのは、基本的に一定のスピードに列車が達すれば、列車自体には、前にも後ろにも圧力を感じない。だから、無風無圧力状態なので、飛び降りる場所は同じ場所なのだ」
 という考え方である。
 だから、密室では、その密室における力が優先すると考えればいいのだろう。ある意味、これが当たり前だと思っていることでも、よく考えると不思議であることというのは得てして多いもので、この場合のように科学で解明されているものもあれば、諸説存在し、それが正しいのか分かっていないものもある。
 つかさもいろいろと不可思議な現象を気にしていたりするが、以前調べた時、
「科学的には完全に証明されていない」
 というものがあった。
 それは、鏡によって写された姿であるが、
「鏡に写った自分の姿というのは、左右反転しているものであるが、なぜ上下で反転していないのだろう?」
 皆鏡に写った姿を当たり前のように見ているが、この疑問を感じることはあまりないだろう。
「一生に一度くらいは、どこかで感じることもあるのではないか」
 と思えることであるが、もし感じたとしても、その感じ方は人それぞれ。
 時間をかけて考えてしまう人もいるだろう。いろいろと本を読んで調べる人もいるだろう。しかし、普通の人は、別に自分の生活に直接影響を及ぼすことではないので、ほとんど意識することもなく、やり過ごすのではないかと思う。
 そういう意味では、電車の中での密室の感覚もやり過ごしているのではないだろうか。この感覚は、上下動でも感じることができる。
作品名:三すくみによる結界 作家名:森本晃次