三すくみによる結界
――こんな真っ赤な太陽なんて見たことないわ――
と思ったが、実はこの真っ赤な太陽を見たことで、今度はそれまでの熱っぽさが轢いてくるのを感じた。
やはり普段から感じている黄色から橙に関しての色が、一番に目を刺激し、熱を籠らせることになるのだろうと再認識した気がした。
真っ赤な色を感じたのは、血の色に違いない。血の色を感じることで、却ってそれまで感じていた頭痛が解消してくるということは珍しくなかった気がした。
――考えてみれば、血って自分の中にあるものなのだから、気持ち悪いというイメージさえなければ、何も悪いものではない――
と言えるのではないだろうか。
ただ、その日は移動にも時間が掛かったし、取材旅行としてはまだ始まってばかり、実際にはほとんどできていないという印象が深いので、一日目から無理をすることもないと思うのだった。
「今日はこれくらいにして、倉敷に戻ろう」
ということで、岡山駅まで行って、そこから倉敷までの数駅を移動した。後楽園を出てからホテルまでは、一連の動きだったので、時間的にはあっという間だった気がした。
移動には結構体力を使うものであって、宿にチェックインして部屋に入ると、空腹も気にすることなく、そのまま襲ってきた睡魔に逆らうことはできなかった。
気が付けば自分がどこにいるのかすぐに理解できなかった。目を覚ましてからというもの、場所への理解、そして時間への理解、どちらもできていなかった。もっとも、どちらかができていれば、記憶に障害さえない限り、自分の状況は理解できるものであろう。
少しして、
「ここはホテルだったんだ」
と気付くと、取材旅行に来ているのを理解した。
目が覚めた時、自分が夢の途中だったという意識もあった。夢を見ていたという意識はあっても、夢の内容と覚えている時は、
「ちょうどいいところで目が覚めた」
と感じるものだが、実際には、次第に戻ってくる記憶の中で、若干盛っている部分もあるのではないかと思うこともあった。
だが、それ以外の時というのは、夢を見たという意識はあっても、どんな夢を見ていたかなど、まったく意識していないことがほとんどだ。だから、夢の途中だったのかなどという意識もないはずなのに、その日は中途半端に夢の途中だったという意識があったのだ。
それはきっと夢を見たということが先に意識にあって、そこから記憶を呼び起こそうとする普段とは違った意識がもたらせたものだったのかも知れない。
夏の暑さが少し収まってきた時期ではあったが、疲れは蓄積されていたことは分かっていた。
疲れというのは、身体を硬直させるようで、しかも身体が硬直してくると、その後に身体に何が起こるかということが分かってくる気がしていた。
緊張したり、逆に緊張した身体が油断した時など、足が攣ったりするものだが、その瞬間が近づいていることが分かるものである。
足が攣っている時というのは、誰にも知られたくないという意識が働くもので、必死で耐えようとしている意識がある。そのせいなのか、まわりに誰もいない時でも、なるべく声を出さないようにしているように思えた。ただ、実際には声を出さないようにしているわけではなく、声を出せないというのが本音で、それだけ痛みに耐えがたいものを感じているに違いない。
硬直した身体はもちろん、疲れから来るものなのだろうが、身体に疲れを与えるのは、外的なものばかりではなく、精神的に内部から溢れ出てくるものがあるのかも知れない。
身体の疲れは微妙に精神的にも影響してくるものだが、精神的な疲れが身体に及ぼすものはないように思える。しかし、何か目に見えないものが影響してくるのか、身体が攣ってしまう時などは、精神的な異常が影響しているのではないかと思うこともあった。
翌日になって目が覚めた時は、途中で目が覚めたことを覚えているのだが、それが夢だったとしか思えないような感覚だった。
夢を覚えているという感覚は怖い夢にしかないものだという思いが強かった。
しかし、たまに楽しい夢を見たという記憶が残っていることがある。それは意識が残っているだけで、結論まで覚えているわけではない、それはきっとちょうどのところで目を覚ますので、
「夢の続きを見たい」
あるいは、
「もう一度最初から見たい」
という感覚になるのではないだろうか。
しかし、そのどちらもできないことは分かっているので、何とか、
「覚えている部分は忘れないようにしたいものだ」
ということで、意外と楽しかった夢を見たという記憶は残っているものである。
しかし、実際に覚えている夢で、後から思い出すのは得てして怖い夢であり。しかも、
「一度以前に見たような気がする」
と、必ず感じさせるものである。
それがどういうことなのかよく分からないが、理屈としては何となく感じているような気がする。
一度自分が見た夢は、
「絶対に現実では起こらないことだ」
と感じている。
ただ、それは過去においての言葉ではなく、未来についての話であった。つまり、過去に対しては、
「何でもあり」
なのだ。
普通に考えれば当たり前のことなのだが、相手が夢だと思うと、その当たり前のことが、何を意味しているのかとついつい考えてしまう。そのために、
「見てしまった夢は思い出してはいけない」
と考えるようになり、夢というものが、
「潜在意識が見せるもの」
という理論に結びついてくる。
「潜在意識とは、無意識の中の意識だ」
と言われるが、これも理解できるような気がする。
「今日は、井倉洞に最初に行ってみよう」
と、我に返ると、感じたのだ。
影の交差
朝の目覚めは普通だった。もし、途中で目が覚めなければ普通の目覚めはなかったかも知れない。そう思うと、旅先での目覚めをいまさらながらに思い出していた。
普通に目覚めることはあまりなかったような気がする。疲れているのか、夢はいつも見ていたような気がする。それも記憶にある夢だったという意識があるので、怖い夢だったのは間違いないようだ。
目が覚めてから表に出ると、その日は昨日までよりもさらに涼しさが増しているようで、朝の風が少し冷たかったような気がする。
靄が掛かっていたような気がするくらいで、急に寒くなってきたのも理解できる気がした。まだ、開店前の商店街を歩いていると、通勤時間帯を思い出したが、圧倒的な人の少なさに、まるで正月を思わせるくらいだった。
駅まで行くと、伯備線に電車が止まっていた。新見行きと書かれた電車に乗り込むと、ローカル線特有の列車の匂いが感じられた。
井倉駅までにも、倉敷、総社、備中高梁など、
「どこかで聞いたことがある」
と思う駅が点在している。
学生時代に読んだ探偵小説の中に、このあたりを舞台にした話も少なくなく、特に映像化作品などは、実際に撮影が行われた場所で、観光スポットとして公開されているところもあるという。