三すくみによる結界
「ごく普通の一般的な人が、常識では考えられない世界に足を踏み入れたことで起こる数々の現象を書いた話」
ということになる。
あくまでも、普通の人が普通に暮らしていて、それがいつ何時、不思議な世界への扉を開くか分からないというのは、テーマになっている。
だから、恐怖の中にも、想像が容易なものでなければ、
「奇妙な味」
という小説は成立しない。
それを思うと、小説を読む側の姿勢も、読みながら、自分もそんな世界を垣間見ているということを意識しながらでなければいけないと思うようになっていたのだ。
何しろ自分の小説は、
「質より量だ」
と思っているので、小説を書いていても、
「人を感動させられるなんてこと、ありえない」
と思っていた。
自分がどうだからと言って、人もそうだとは言えないが、実際に面白いだとか、悲しいだとか、かわいそうだとかなどと、感じたことはなかった。それならまだ、
「事実は小説よりも奇なり」
と言われているように、ノンフィクションの歴史関係の話や、歴史上の人物の伝記などを読んでいる方が、よほど心を動かされるというものだ。
そういう意味で、人の書く小説にどこかわざとらしさを感じるというのも無理もないことではないだろうか。
これもやはり、自分のことを棚に上げてなのだが、人の小説にあざとさを感じてしまうと、自分もそこで執筆の勢いが止まってしまう。それが嫌だという理由が、
「質よりも量」
という方針に繋がっているのだ。
実際には、すぐに忘れてしまうというのもあった。特に小説を書くようになってから、自分でも物忘れが激しくなってきたような気がする。小説を、その時、二時間ほど集中して書いたとしても、そこから同じ二時間が開いたとしても、その間に前に書いた内容と、ほとんどと言っていいほど覚えていなかったりしたものだ。
それは、小説を書いていて自分で集中してしまうことで、自分の世界を作っているのである。だから二時間集中して書いていても、本人は二十分くらいしか書いていなかったような気がする。それほど集中力を高めているので、一旦自分の世界を抜けてしまうと、また元に戻すまでが大変なのだ。
それは現実世界が重たいという認識ではない。あくまでも、小説の世界に入り込んで書くという印象から、現実世界というのは、逆に虚空の世界のように感じ、うつつの世界としてしか感じないようになっているのだった。
うつつの世界は、現実世界とはまた少し違う。しいていれば、小説を書くために入り込んでしまう世界への入り口とでもいうべきか、その時小説を書き終えてから、戻る世界がうつつであればいいのだ。
そうすれば、前に書いた内容が記憶として格納されることもなく、意識のまま、小説の世界に戻ってこれるので、物忘れもそこまでひどくはないだろう。
だが、最初に小説の内容を覚えていない時は、自分でも焦った。
「まだ若いのに、健忘症にでもなってしまったのかしら?」
と感じ、顔が青ざめた気がするくらいだった。
小説を書き続ける書き続けない以前に、普通の生活にも影響が出てくれば怖いものだと感じたのだ。
だが、それは健忘症が原因ではなく、自分の集中力の高さの弊害として起こったことであるならば、それはそれで仕方がないと思う、
特に小説が書けるようになった代償だとするならば、少々物忘れが激しくなったくらいは、想定の範囲内だと思うようになっていた。
そんなつかさが、人の小説に感動したなどというのは、本当に久しぶりのことだった。文章作法などでは、見習うべきところある人はたくさんいるが、基本的につかさが読む小説は、人を感動させるものではない。
いや、恐怖を与えたり、考えさせたりするというのも、一種の感動を与えると見てもいいのかも知れない。
そう思うと、自分の書いている、
「質より量」
の小説も、中には人に感動を与えているものもあるかも知れない。
年齢もまだ二十代の半ばに差し掛かった頃、まだまだ若い部類になろうから、作品もそれほどたくさんではないが、数年後、三十歳になった時にどれほど増えているか、自分でも楽しみだった。
小説を書くということがどういうことなのか、つかさは分かっていないような気がしたが、今の気持ちを持ち続けることが、今は大切なのだと思っている。
自分のまわりにいる人のほとんどは、つかさが小説を書いているということを知らないだろう。実際に誰にも話をしたことがなかったからだ。
最初の頃が、おこがましいという気持ちが強かったことで、人に話すのを恥ずかしいという感情になるのだと思っていたが、同じ恥ずかしいという感情であっても、今はおこがましいという感覚とは少し違っている。
「なんだ、この愚作は」
と言われるのが怖いのだ。
おこがましいという謙虚な気持ちが消えると、人から認め荒れたいという思いが強くなり、それが転じて、人から中傷されるのが怖いのだ。
おこがましいという気持ちが消えたわけではない。中傷が怖いという意識の方が、おこがましさを上回っただけなのだ。
その怖さが得体の知れないものであるだけに、おこがましさが消えたと思うほど、気持ちが怖さに移行していた。その思いが、小説を書く上でのプロセスを歩んでいるということなのかも知れないが、本人としては、どこか気持ちが後退しているという意識を強くするのだった。
そんな感情の中、この日になって、初めて小説を書いている人に直接話が聞けるというのは、どこか感無量なところがあり、緊張とは違った震えが止まらなかったのだ。
インタビューは、彼が我が社に来てくれるということで、会社の近くにある喫茶店で行うことにした。
「事務所でもいいですよ」
と言ってくれたが、何しろ事務所は狭いし、資料が山積みになっている関係で、それなら近くの喫茶店でしゃれた店があるので、そこで行うことにした。
待ち合わせの時間かっちりに、その人は現れた。
少し緊張気味なのか、歩き方がぎこちなかった。しかしよく見てみると、
――あれ? どこかで見たことがあったような――
と思ったが、思い出せなかった。
相手もつかさを見つけて、軽く頭を下げたが、どうもつかさの顔から目が離せないようだった。
「あの、どこかでお会いしたことがあったような気がしたんですが」
と最初にいったのは、彼の方だった。
年齢的にはそれほど若いわけではなく、自分の方がまだまだ新米と思えた。
――確かにどこかで会ったことがあるような――
と思ったが、すぐには思い出せなかった。
「気のせいだったんでしょうかね」
と言って、最初に自分がどこかで会ったことがあると言い出したのに、それを否定し始めた。
相手に否定されると、今度はつかさの方が、この人に会ったことがあったはずだという思いを強くした。
すると、つかさは思い出した。
――そうだ。この人、数週間前の山陽道の取材旅行で、出会ったあの「影のない男」に似てはいないだろうか?
と思った。
「つかぬことをお伺いしますが、ここ一か月の間くらいのことなんですが、岡山県に旅行された覚えはありませんか?」
とつかさが聞くと、相手はキョトンとして、