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三すくみによる結界

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 と思いながら睡眠に就くと、気が付けば目が覚めていた。
 その間に夢を見たという意識は別になかった。
 夢を見たという記憶がなくても見ている場合はある。しかし、この日は、
「本当に夢を見ていない気がする」
 という程度の自分のようなものがあった。
 この日、夢を見ていないということは、余計な先入観が頭の中に宿っているわけではないと思うので、つかさは次の日、もう一度、
「性格的なドッペルゲンガー」
 を読んでみることにした。
 今度はあくまでも昨日とは違っている。
「今日は昨日と違って、最初から二回目が印象が違った」
 という意味での先入観があった。
 昨日夢を見なかった時に、
「余計な先入観がなくてよかった」
 と思ったのは、先入観を先入観で上塗りしてしまうのが怖かったのだ。
 つまりは、
「余計な」
 という修飾氏がついているかいないかが問題なのだ。
 朝から読み始めた読書は、久しぶりに緊張した。基本的に読書は気持ちに余裕があって、楽しむものだというのを理想だと思っているが、今回は仕事で読まなければいけないという意識と、さらには昨日が最初に読んだ時とまるっきり違った登場人物の印象だったということがあったからだ。
 しかし考えてみれば、影のような存在であるドッペルゲンガーが、最初に読んだ時とまったく違って感じられたというのに、ストーリー展開が同じにも関わらず、話全体に受けた印象は、最初に読んだ時とそんなに変わっているという印象はなかったのだ。
――本来なら変わっていて当然なのにどうしたことだろう?
 これも最初に感じた違和感という名の先入観であった。
 今度は三度目になるが、話を読み進んでいくうちに、今度も、
「あれ?」
 と感じることがあった。
 それは、一度目とも二度目とも、結構早い段階、序章のあたりから、雰囲気が違って感じられた。まだ登場人物が出てきているわけではないのに、どこがどう違っているのか説明を付けられるはずのない場所であるにも関わらず、そういう印象を最初に与えられた。
 そう思って読んでいくと、やはり明らかに違っていた。
 それは、最初と二回目とも違うものだった。しかも、それは何が違うのか、すぐに分かったのだった。
「主人公の雰囲気がまったく違っている」
 それは、二回目に影に感じた思いに似ていたが、まったく同じものではない。それが何を証明しているのかというと、どうも、
「影なる男は、本当はドッペルゲンガーなどではない」
 ということを示しているかのようだった。
 そのことを証明することで、この本の再読が本当は必要であることを教えられた気がした。
――こんな小説、初めて読んだわ――
 と衝撃的な感覚だった。
 今までに、時間を離してはいるが、再読は初めてではない。すべての再読が同じ気持ちにさせるわけではなく、この作品の持つイメージがそうさせるのかも知れない。
 考えてみれば、性格的なものをドッペルゲンガーと結びつけるという発想自体に無理がある。
 ドッペルゲンガーというものが、その人本人であるということを大前提として考えれば、ドッペルゲンガーなる言葉を使用すること自体、ルール違反なのかも知れない。だが、つかさはそれも小説としてはありなのではないかと思っている。ドッペルゲンガーというものが都市伝説で、都市伝説ならではの言い伝えにもなっていると思えば、諸説あってもいいであろう発想をオリジナリティに沿って、新たな小説を創造するとすれば、それはありではないだろうか。
 三度目に読んだ感覚もやはり、最初、二度目とはまったく違っていた。
 つかさは、もうこれ以上の再読は考えていない。最初から三度読んでみる計画だったので、その通りにしただけだった。この状態で、明後日には取材、どのようにしようかと考えてみたが、なるようにしかならない。自分の考えは一度収めておいて、相手に話をさせるように持っていくことを中心に考えよう。相手が喋りたいことを引き出すという考えも取材では十分にありである。
「あまり深く考えないようにしよう」
 それだけのことであった。

                  正体

 今までに取材でのインタビューは何度かこなしてきたので、いまさらという感はあるが、正直にいうと、相手が作家というのは初めてだった。確かにプロの先生というわけではないが、自分が最初に目をつけていた素人作家を自分でインタビューできるというのも、どこか感無量な気もする。
 しかし、逆の心境もあった。
 自分が目指しているものが小説家ということである。夢に見ている相手に対して果たして自分が何をどのように聞けばいいのかということは、かなり考えなければいけないことではないかと思うのだ。何を聞いたとしても、相手が返してくる返事に、自分の気持ちがブレないとは限らない。羨ましいという嫉妬心が生まれないとも限らないし、自分にとって目指していたものの印象が変わってしまわないとも限らない。それを思うと、若干怖い気もしてくるのだった。
 小説家を目指すようになったのが、いつからだったのかということはハッキリと覚えていない。ただ、高校の時に先輩から、一人の作家の本を貸してもらって、それを読んだのがきっかけの一つだったと思っている。
 いつもお世話になっている先輩だったので、その頃まではあまり読書もしたことはなかった。中学の頃までは文章が苦手で、国語のテストでも、文章よりも先に設問を読んで、例題文を中途半端にしか見ずに答えていたではないか。それを思うと、本を貸してもらったとしても、それは、
「ありがた迷惑」
 でしかなかったのだ。
 しかし、貸してもらった小説は、つかさに衝撃を与えた。
「こんな面白い小説があるなんて」
 と、ベタな感想をもらしたほどであるのだが、それが内容そのものというよりも、作家の文章力が大いに影響していた。
「まさか、文章で心を動かされるなんて」
 と感じさせられた。
 それは、マンガなどのビジュアルでは言い表せない部分を十二分に秘めているということを読んでいて分からせてくれた。
 小説における文章は、想像力の賜物であり、映像や画僧、そして絵などから感じるものはしょせん二次元であり、小説による想像力は、時系列迄含んだ想像力の四次元ではないかと思わせたのだった。
 小説を読み込んでいくと、
「奇妙な味」
 という世界が広がっていく。
「次はどんな文章で、読み手の度肝を抜いてくれるのだろう?」
 ということを感じながら読んでいると、一行一行、さらには一文字ごとに、迫ってくる何かを感じないわけにはいかないではないか。
 しかも、つかさは、本というものの形が好きだった。掌にちょうどよく収まる文庫本、カバーのデザインも、小説の内容に則して作られていて。特にSFやオカルトなどは、イメージが浮かんでくるほどだった。
 それまでは、怖い話はあまり好きではなかったが。実際にホラーも読んでみると、いないはずの妖怪や、ありえないと思える怪奇現象も、すぐそばに蠢いているように思えてきた。
 それをいかに表現するか。それが小説の世界である。つかさの好きなジャンルである。
「奇妙な味」
 と呼ばれるのは、
作品名:三すくみによる結界 作家名:森本晃次