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三すくみによる結界

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 と言っていたが、確かここの編集長は、大手出版社にいたのを、うちの社長が轢き悔いたという話だった。
――引き抜いたというわりには、パッとしないけど――
 とつかさは感じたが、それでも大手にいることは、若手ホープという呼び声があったくらいだったので、引き抜きがあっても当然の人であった。
 そんな編集長が、元上司から、
「押し付けられた」
 のだろうが、断ることもできないのは、気の毒であった。
「しょうがないですね」
 と、嫌味の一つも言って、とりあえず引き受けることにした。
「どんな話を書いている人なんですか?」
 と聞くと、
「何でも難しいジャンルの小説を書いているらしい。出版はしていないんだけど、ネットで少し話題になりかかっているので、今のうちにインタビューしておくのも悪くはないだろう」
 という話だったのだ。
「代表作はあるんですか?」
「あるみたいだよ。話題になっている作品は、『性格的なドッペルゲンガー』というらしいんだ。難しいタイトルだろう? ちなみに、ドッペルゲンガーっていうのは、自分と同じ人間ということだろう? それが性格的なという意味が分からないよな」
 と編集長は自分でふって。自分でボケていた。
 ただ、つかさとしては、自分も興味を持っている作家で、どんな人なのか興味津々だっただけに、心の底では、
「よし」
 とガッツポーズを示したが、あくまでも表面上は、
「しょうがないですね」
 と、編集長が引き受けたことで、こっちにとばっちりがかかったとばかりに表現したのだ。
 インタビューの日は、三日後に設定し、作者と話ができるのを楽しみにしていた。
 ペンネームは、
「服部省吾」
 というどこにでもあるような名前だった。
 ホラーやオカルト作家が好むような恐怖を与えるような語に、ダジャレを催したようなペンネームをつけているわけではなかった。
 つかさは、インタビューの前のこの三日間の間に、一度は小説を読み直してみようと思っていた。
 幸い編集長から話のあったその日は、プライベートでは何ら予定を入れていたわけではないので、その日のうちに、読み直してみた。
 ワードにコピーして、縦書きにしてから印刷すると、読みやすい気がした。やはり横書きよりも縦書きの方が読みやすいのは、日本人だからであろうか。
 前はネットの横書きでしか見ていなかったので、読み終わった時の衝撃を印象としてしか残せなかったが、今回は用紙に印刷して読むのであり、しかも再読ということなので、さぞや記憶にも残るに違いない。
 ボリュームでいえば、一気に読むのは結構きついのだろうが、最初に読んだ時には、
――タイトルが難しいわりには、読みやすい気がする――
 という印象を得た。
 実際に読み始めてみると、最初に感じた読みやすさはそのままで、一度読んでいることもあってか、一気に読める気がした。少々は端折っても構わないくらいに思えて、読み直しの小説であるということを考慮すると、セリフだけを読み込んでもいいくらいにも思えた。
 だが、それは最初だけで読み込んでいくうちに、文章の一つ一つをいつの間にか飛ばすこともなく読み込んでいた。中学生の頃までのつかさは、国語の文章題など、例文を読まずにいきなり設問から入っていたので、国語の成績は最悪だった。
 そんな中学時代の自分が、今まさか、出版関係の仕事をしているなど。想像もできなかったに違いない。
 読み直しになると、以前気にしていなかったところを気にするというが、まさにそうだった。
――こんなシーンがあったんだ――
 と感じるところがあったりして、まるで最初に読んだ印象とは別の作品に感じられるほどになっていた。
 今までに同じ小説を読み直すということはなかったので、こんな感覚になるなど思ってもみなかった。いつもは、小説は一度読んだら、短い期間での再読はなかった。何年も経ってから読み直すということはあったが、その時には結構内容は忘れていて、以前に読んだ時の記憶がないものだから、比較対象もないに等しかった。
 その話を二度目に読んだ時に浮かんできた光景があった。ただ、小説の場面とは似ても似つかない光景であったが、これを思い出すというのは、何か曰くがあるのではないかと思わせた。
 小説も舞台は都会であった。都会の大学生が友達はいるのだが、その付き合い方は少し変わっていて、お互いにどこかに誘いあうというわけではなく、
「気が付けばいつも一緒にいる」
 という感じの友達が多いのが、主人公の特徴であった。
 一生懸命に生きているわけでもなく、かといって、ものぐさに生きているわけではない。何も考えているように見えるが、何も考えていないわけではなく、むしろ、絶えず何かを考えているのだ。それがまわりに注意力が散漫だと思わせる行動になったりして、あまり友達も多いというわけではなかった。
 そんな彼が、
「性格的なドッペルゲンガー」
 と呼ぶ人がいた。
 いつも影のように自分の足元から伸びているかような人物で、そのくせ、他の人からは、主人公とまったく違った性格に見えるのだった。
 顔も似ているわけではなく、まったく違っているのだが、
「ふとしたことで、見分けがつかないほど似ている時がある」
 とまわりの人に言わしめた。
 実際には友達というわけではないのに、まわりからは親友のように思われているようだった。
 最初に読んだ時と明らかに雰囲気が違っていた。一度目に読んだ時と再読の二度目とでは何が違うのかというと、
「主人公にとっての影の存在である、いわゆる準主役が最初に読んだ時とはまったく違って感じられた」
 ということである。
 しかし、考えてみれば、影が違っているのであれば、主人公から見る影というのも違って見えて不思議はないのに、感じ方は同じに描かれている。それを再読では、違和感なく読み込めるのだった。
 普通であれば、影の存在の雰囲気が違っているのであれば、見え方も違ってしかるべきである。それにも関わらず、主人公はまったく変わったという意識もないのだから、まるで、
「三すくみの一角が崩れたのに、均衡が取れているという矛盾」
 を感じているかのようだった。
 そのインパクトとして表現できるとすれば、いわゆる、
「メビウスの輪」
 ではないだろうか。
 捻じれた輪であるにも関わらず、一方に引いた線が、輪を作ると、同じ方向に向かって重なるという。異次元を意識させる代名詞になっている、あの「メビウスの輪」であるのだ。
 ただ、最後まで読み終わった時のイメージは、そんなに最初と違うわけではない。
 むしろほぼ同じだったことへの違和感があるくらいで、登場人物のイメージが違っているのに、最後の印象が同じだというのは、どうにも納得のいくものではなかった。
 そのままインタビューを試みる自信がなかったので、もう一度あす再読してみることにした。
 もう一度、今の流れで再読しても、二度目に読んだイメージが強く残ってしまっているので、一日は開ける必要があるんだろう。一度睡眠をまたいで読み直すと、どんな気分で読みことができるのか、それも興味の元でもあった。
「今日、何も余計な夢を見なければいいけどな」
作品名:三すくみによる結界 作家名:森本晃次