三すくみによる結界
つかさは、あまりいろいろ考えて執筆する方ではない。性格的には神経質ではあるが、あまり書き始める前から具体的にしてしまうと、書いていて雁字搦めになってしまう気がして、好きではなかった。
大雑把な性格も手伝ってか、ある程度までプロットができれば書き始める。書いているうちに思い浮かんだことを加筆していくうちに、形にもなってくるが、下手をすると、まったく違う作品になってしまうこともある。だが、出来上がってしまえばそれでいいのだ。つかさは、そのあたりにはあまりこだわりを持っていない。
そんな風に考えているからなのか、
「作品は、質よりも量だ」
と思っていた。
いろいろ考えすぎて堂々巡りを繰り返し、書き始めることができなかったなどというのは、愚の骨頂だと思っているからだ。
それよりも下手でもいいから書き続けていると、それなりの作品が書けるようにもなるし、それだけ作品が出来上がることになる。それが嬉しかった。嬉しさはやりがいとなり、大げさにいえば、生きがいでもあった。
まだまだ長編を書けるほどにはなっていないが、原稿用紙で百枚くらいの作品までは書けるようになってくると、自分なりに自信もついてくる。
最初は、五枚くらいがやっとだった時期が懐かしいくらいだ。
そんな程度の枚数であれば、自分で書いたという気もしなかったのではないかと今では思えるが、書けるようになるまでにいろいろ試行錯誤を繰り返したことを思えば、自分にとって、五枚であっても信じられないくらいのものだった。
そもそも、大学で文学部に進んだのも、
「できれば、小説家を目指したい」
という思いがあったからだ。
それも、ライターのようなノンフィクションではなく、すべてを自分で創作すると言ったフィクション系の小説家である。
つかさは、大学時代の頃まで、いや、自分で小説が書けるようになるまでは、
「ノンフィクションを書いている人を、小説家と呼びたくない」
と思っていた。
作家であったり、執筆家、ライターという表現であればまだしも、小説家というのを名乗ることを許せないとまで思っていた。
今も基本的には考え方は変わらないが、ライターとしての仕事をしている以上、自分がこれから小説家を目指したいと思うこと自体が間違っているのではないかとさえ思えるほどであった。
「性格的なドッペルゲンガー」
という小説を読んでからというもの、自分の小説もどんどんオカルト寄りになっていることに気が付いた。
オカルト寄りというのは、SFやホラー、ミステリー色を削っているという意味であった。
純粋なオカルトを目指しているわけではないが、
「本格オカルト小説」
というジャンルが存在するのであれば、それが純粋なという意味ではないかと思っている。
探偵小説というジャンルで、
「本格探偵小説」
と呼ばれるものがあるが、その定義としては、
「小説の書き方の一つで、その小説の雰囲気によるものではなく、謎解き、トリック、名探偵の活躍などと言った概念を持って書かれた小説」
と定義されている。
しかし、オカルト小説自体が、そもそもミステリーと言う広義の意味から独立したものであることから、
「本格ではない」
と、最初から烙印を押されているかのように思えた。
それを思うと、オカルトに大切なものは、やはり、怪奇小説であったり、幻想小説、SF系に近くなるのだろう。
つかさはその中でも幻想小説をオカルトの起源として考えている。それこそが自分の目指しているもので、ドッペルゲンガーなどの現象や、心理学でいわれている様々な症候群、さらに、同じく心理学用語としての「○○効果」などというのも、その一つではないかと思っている。
小説を書いていると、
「私って、こんなに集中力が高かったのかしら?」
と思えるほどになっていた。
元々、集中力には難がある方だと思っていた。中学、高校時代には勉強をしていても集中できなかった。一人では難しいと思って、友達を誘って勉強するのだが、却って火に油だった。お互いに集中などできる環境にあることを分かっていながら一緒にいると、今度は一人になるのが怖いのだ。
どこから来る心理なのか分からなかったが、つかさにはその思いがその後もずっと残るような気がしていた。
実際に大学に入っても試験前などは、勉強が手につかないなどということも結構あり、図書館でやっても、ファミレスでやっても、もちろん、自室で勉強しても集中できない。何が原因なのか分からないほどであった。
考えられることとすれば、
「好きでもないことをやらなければいけないという意識だけで続けようとすること自体に無理がある」
ということではないかと思った。
つかさにとって小説を書くことは好きなことをすることであり、そのための集中力はハンパないと思っている。
「書けなかった時期を、試行錯誤を繰り返して書けるようになった大好きなことなだけに、これで集中できなければ、本当に集中力がないということを見問えないわけにはいかないだろう」
と思うようになっていた。
オカルト小説を少しずつでも長く書けるようになりたいと思っている。それは長編を目指しているという意味であるが、
「性格的なドッペルゲンガー」
という小説は、長編と言ってもいいほどの長さがあった。
文庫本にすれば、二百五十ページ近くにはなるのではないだろうか。
だが、その小説は今まで自分が読んできた長編小説のどれよりも簡単に読めた気がした。文章が易しいというのおその一つだったが、そもそも主題が難しいので、なかなか一度くらい読んだだけでは理解できないことも多いだろうが、つかさは一度読んだだけで理解した気がしていた。
小説というものは、一度読めばそれでいいと思っていた。
だから自分の作品も、一度読み終えた読者がその時どう思うかというのが、すべてだと思っていた。
なかなか小説を書くというのは骨のいる作業ではあるが、書き始めると自分の世界に入り込んでしまう。
もっとも入り込まないと書けないものであり、それが集中力に繋がるという、いい意味でのスパイラルが形成されることで、小説を完成に導くことができるのであろう。
オカルト小説は書けるようになると、その幅の広さを感じさせられる。
普通であれば、
「こんな中途半端な終わり方、いいわけはない」
と思っていて自分で読み返してみると、案外と謎めいた小説になっていたりする。
ただこれも自分の思い込みから感じることなので、都合よく読んでしまうという弊害なのかも知れないが、それでも、
「これこそが自分の目指すオカルト小説だ」
とも思えてきて、どこまで自分に都合よく考えるのか、不思議なくらいだった。
「性格的なドッペルゲンガー」
の作者がどんな気持ちで作品を書いたのか、聞いてみたいものだった。
それは、案外近いうちに訪れることになった。しかも、自分で望んでできた舞台ではないのが面白い。
編集長が、他の編集者から頼まれた忖度だった。
「今度の人は素人なので、本当なら引き受けるつもりはなかったんだが、大手出版社にいた時の先輩からの頼みで断れなかったんだ」