三すくみによる結界
あるいは、
「本を出したい」
と思っている人には物足りないのだろうが、自費出版社の残した、
「黒歴史」
を目の当たりにしてきた人は、これくらいの活動が一番無難でいいかも知れない。
何しろ無料で公開して、作品を自分だけで埋もらせることができるのだから、販売できないにしても、実害はない。
今から十年前くらいが全盛期だったこともあり、今では随分登録者も減っていることだろう。中には幽霊会員というのも多いはずだが、それでもまだまだ新規登録者も少なくはない。
登録者にも読者として登録している人もいて、作品をアップしていない人もいるというのも特徴かも知れない。
そんな無料投稿サイトに、実はつかさも登録していた。まわりの人には言っていないので、きっと誰も知らないだろう。しかもペンネームを使っているので、つかさが小説を書いていることを知っている人でも、どんなジャンルのどんな作風なのかを知る由もないだろうから、分かるはずなどないと思うのだった。
つかさが書きたいと思っているの、SFやミステリーだったが、そのどちらも加味したようなジャンルとして、オカルトがあるのではないかと思っていた。奇妙なお話や、都市伝説のような発想は、SFにもミステリー、あるいは、ホラーにも通じるものがあると思っている。
つかさが、偶然見つけたという、
「性格的なドッペルゲンガー」
というのがテーマの小説は、自分が数年前から登録している無料投稿サイトで見つけたものである。
このサイトには、数十作品ほどの短編を投稿しているが、ジャンルとしては、やはりオカルト系になったいる。人から聞いた奇妙な話であったり、仕事上、他の雑誌も研究する必要があるので、雑誌の中にあるコラムや、紀行文の中でのちょっとしたコラムであったりする部分には、オカルト小説のネタになる話も載っていたりするのだ。
ドッペルゲンガーというのは前述のように、自分本人でなければいけないのだろうが、ここでいう、
「性格的なドッペルゲンガー」
というのは、自分のことを何でも理解できる人間であり、下手をすると自分でなければ知らないことや、自分でなければそんな発想が生まれるはずはないと言ったものをすべて持っていて、行動パターンまで分かっているという、まるで、
「影のような存在」
と思える人のことであった。
その表現も小説の中に使われていて、
その影という文字を見た時、
――そういえば、取材旅行に行った時、後楽園や井倉洞で似た人には影がなかったんじゃなかったかしら?
というのを、いまさらながらに思い出した。
その小説の話は、無料での閲覧なのだから、自分のような素人が書いたもので、他の読者がどこまで感銘を受けるかは未知数だった。感想やレビューなどはなく、それを見る限りでは、さほど注目されているわけではなさそうだった。
つかさのようにオカルトが好きで、似たような経験を味わった人間でもなければ、なかなか感銘を受けるというのは、難しい話であろう。
ただ、つかさの投稿しているサイトは、ライトノベルなどよりも、本格的な作品が多いところなので、他のサイトに比べて年齢層の幅の広さが注目でもあった。
実際の、
「性格的なドッペルゲンガー」
の内容であるが、途中は端折ったとして、ラストの方で、その人を何か変だと思っていた主人公が見て、影がないことにやっと気づいた。その時に、初めてその人の性格であったり、生きてきた人生の記憶であったり、今何を考えているかという意識がすべて自分に入り込んでいくのを感じたのだ。
「まさか、この私があの人のドッペルゲンガー?」
と感じた。
なぜ、ドッペルゲンガーという言葉が出てきたのかというと、オカルト好きの主人公が、学校で他のオカルト好きの友達と話をしている時に出てきたワードがドッペルゲンガーだったのだ。
主人公は中学生の女の子で、彼女はオカルト好きではあったが、ドッペルゲンガーという言葉は初耳だった。
言葉のニュアンスにも興味を引いたし、話を聞けば聞くほど、興味をそそられたのだ。
「もう一人の自分」
この感覚に参ってしまったと言ってもいい。
自分が今までに見た夢で、
「一番怖かった」
と認識しているのが、夢の中にもう一人の自分が出てきたことだった。
夢の中でのもう一人の自分は、夢を見ている自分に気付かない。きっと夢というものを、スクリーンに映った映画のようなものだと思っているから、相手に見えるはずはないという思うがあるのだろう。
しかし、もう一人の自分には、スクリーン越しに、見ている自分を認識されているのではないかと思うのだった。
「認識できるわけなんかない」
と思って見ているのだが、どうも夢の中の自分を見ていると、何かを探しているように思えた。
それは手元であったり、足元と言った面前のものではなく、虚空のどこかに何かを探している。その様子がまるでスクリーンの先を見通そうとしているように感じるのだ。
「性格的なドッペルゲンガー」
という小説でも、見えるはずのない相手を探しているような描写になっていた。
「ドッペルゲンガーというのは、見てしまうと近いうちに死んでしまうと言われているのよ」
と友達は言っていたが、それこそ都市伝説の類であるのだが、過去にいろいろな有名人や著名人の逸話が残っていた李して、かなりの信憑性が感じられる言っていたが、本当であろうか。
しょせん都市伝説の類は、聞いた人がどこまで信じるかということであるが、信じるには共感だけではいけない。自分の経験に基づいて、経験や記憶が自分の感情を動かすだけの信憑性を持つことが前提であろう。
つかさは、奇妙な因縁をその人に感じた。
もちろん、ドッペルゲンガーというものに造詣が深いのも一つであるが、性格的という言葉にも何か惹かれるものがあった。
――性格的って、どういうことなのかしら? ドッペルゲンガーというのは、本人でないと成立しないはず――
と思いながら、そう思えば思うほど、影というキーワードが付きまとっていて、それが自分とこの作品を結び付けるものだという認識もあった。
本当は認めたくはないが、影のない人間を見たり、読みながら相手の過去や、考え方が見えてくるような感覚は、まるで自分がドッペルゲンガーになったような気がしてくる。
だが、それは自分がドッペルゲンガーなのか、相手がそうなのか分からない。しかし、
「見ると近いうちに死んでしまう」
という都市伝説を考えると、なんとかドッペルゲンガーではないということを証明しなければいけないような気もしていた。
だが、あくまでも同じ無料投稿サイトに登録しているというだけの関係で、個人情報のうるさい今の世の中で、相手を特定することは不可能に近い。やはり、なるべく意識しないようにするしかないということなのだろうか。
性格的なドッペルゲンガー
つかさは、最近また無料投稿サイトを利用して作品をいくつかアップした。山陽道での取材旅行から帰ってきてから、結構いろいろなアイデアが生まれてきて、
「今なら、作品を量産できるかも知れない」
という思いが強かった。