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三すくみによる結界

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「意識の中で辻褄を合わせるために、記憶を操作した」
 と言えるのではないだろうか。
 だから、最近のつかさは、
「意識は簡単に変えることのできないものだが、記憶は意外と簡単に変えられる」
 という思いを持っていた。
 ただ、意識も絶対に変えることのできないものではない。自分を納得させることができれば、意識も変えることは可能であろう。
 それを思うと、記憶と意識の間には、意識が上であるという従属関係が生まれるのではないかと思えてきた。
――じゃあ、意識と記憶以外に何か他の感情で、三すくみを形成できるのではないだろうか――
 というおかしな発想がつかさの中に生まれてきた。
 その時に思い出したのが、井倉洞で見た上下で距離が違っているという感覚に陥った時に感じた、電車の中の感覚、
「垂直に飛び上がった時、密室の中の電車の中では、同じスピードで走っていれば、飛び上がった場所と同じところに着地するはずだ」
 という理論だった。
 もし、この密室の中に三すくみの感情があるとすれば、記憶と意識、そしてもう一つは何かをいろいろと考えてみた。
――潜在意識ではだろうか?
 と考えてみると、潜在意識の代名詞とでも言えることを、
「夢である」
 と考えると、強い方である意識よりも、夢の方が強いという感覚を持つことがまずできるであろうかということである。
 夢というのは、あくまでも本能というべき無意識によるものである。無意識というと意識していることよりも明らかに幅は広い。幅という意味で考えれば、意識よりも強いと言えるだろう。
 だが、今度は夢は記憶よりも弱いおのでなければいけない。果たしてその理屈は成立するであろうか。
 記憶というのは、意識が過去に変わることで記憶という別の場所で格納され、意識のように自分を操ることのできるものではなくなる。ただ、記憶というものは時と場合によって思い出すことで、励みになったり、逆にその人を制約してしまう力を持っている。その力は無限のものに感じる。なぜなら、記憶が引き起こす自分への影響は、あまりないことなだけに想像の域を出ないわけではなく、想像に値しないものだと思えるからだった。
 そう思うと夢という範囲は果てしないもので、いくら意識によって変えられたとしても、まったく触ることのできない場所もある。それがいわゆる、
「記憶の封印」
 と言われるものではないのだろうか。
 封印する場所があることで、記憶はある意味では意識よりも強いと言えるのかも知れないが、人間の考えの中心は記憶ではなくあくまでも意識なのだ。それは変えることのできない事実である。
 では、夢というものはどうなのだろう?
 夢は潜在意識と呼ばれる本能が見せるものである。
「夢なんだから、何でも可能であろう」
 という発想になるだろうが、実際に夢の中で意識をすることは難しい。
 夢を見ているという意識を持ってしまうと、場合によってはそこで目を覚ましてしまうこともある。特に夢というのは、覚えている夢はほとんどないという。これは、
「無意識の中の意識」
 とでも言えるかのような潜在意識によるものだからである。
 要するに、自分に都合のいい夢というのは見ることなどできないのだ。
 ただつかさは今までに夢を見ていることを意識しながら、夢を見続けたことがあった。
「これは夢だ」
 と思って、思わず空を飛んでみようと思った。
 高いところから飛び降りるような危険であれば、たぶん、途中でせっかくの夢が覚めてしまわないとも限らないので、普通に宙に浮くところからやってみようと試みると、実際には宙に浮くことまではできた。しかし、そこから自由に空を遊泳できるようなことはなく、まるで空間が水中であるかのように、空気を漕ぐことでやっと進めることができたのだ。
 それは、以前子供の頃に見た、SFアニメで同じような光景があったのを覚えていたからだというのも、すぐに理解した。つまりは、
「夢というのは、しょせん想像の域を超えることはできずに、自分にとって都合よく見ることなどできないものだ」
 という結論に陥る。
 そうなると、自由に変えることのできる夢に対して、実に弱いものに感じられる。
 意識との比較では、変えられる方が弱かったのは、あくまでも、
「意識が介在することで記憶が変わる」
 という力関係があるからだ、
「夢と記憶の間には、記憶の内容を変えられるだけの力を、夢が持っているわけではない」
 という関係から、力関係においては、記憶の方が強いと言えるだろう。
 そう考えてみると、
 夢と記憶と意識、この三つには三すくみの要素があると言えるのではないだろうか。
 ただし、これはかなり強引な理論に基づいているものなので、どこまで信憑性があるものなのか分からないが、つかさの中では納得のいくものだった。他の人との人間関係だけではなく、一人の人間の中にも三すくみが存在していると考えると、実に面白いと言えるのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、取材旅行で見た不思議な男性への感覚は、それが夢なのか、それとも意識なのか、記憶なのかのどれあろうか?
 と思わずにはいられなかった。
 元々三すくみというと、じゃんけんのようなゲームであったり、ヘビ、ナメクジ、カエルというお互いにけん制し合うような関係をいう。つまり一種の密室のような感覚を抱くのはつかさだけであろうか。
 それぞれに自分が積極的に自分より弱い相手に向かっていけば、そこで自分が苦手な相手に隙を作ってしまうのではないだろうかと考える。
 しかし、相手も同じことを考える。相手が動いたのだから、こっちも動くと今度は横から?っ攫われてしまうのではないかと思う。
 つまり、自分がどちらかに注意の重きを置けば、もう一方が疎かになってしまい、命取りになりかねない。だから、双方に対して均衡に注意力を保っておく必要があるのだ。そうでないと、足元をすくわれないとも限らないからだ。
 自分の中にある、三すくみの関係だと思っている、意識と夢と記憶の関係も、もしそれぞれで相手を「意識」するとすれば、均等にしなければいけないだろう。ちなみに、ここで書いた「意識」という言葉は、三すくみの中にある意識でもあるのだが、その中で突出したものでなければ、この発想を抱くことはできないのだろうと思うのだった。
 つかさは、自分が三すくみを意識するようになったのは、小学生の頃だったのだが、あの時はもちろん、三すくみなどという言葉も知らず、じゃんけんを知っているだけだった。それは他の子供と同じことで、じゃんけんが孕んでいるところに従属関係など感じていなかった。
 それなのに、中学になってから感じた三すくみの関係では、つかさは、自分の中でハッキリと、
「従属関係」
 というものを感じていたのは、間違いのないことだった。
 つかさは、井倉洞で見た男が、同じ次元でスピードが違うという発想を考えてみた。
 いろいろと考えてみたが、思い浮かんだのは、
「温度差の違い」
 というイメージだった。
 人は奇しくも、同じ光景を見ていて違うものを想像したり、同じ状況下で立場が違う時など、
「温度差が違う」
 という表現をする。
作品名:三すくみによる結界 作家名:森本晃次