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短編集98(過去作品)

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 実際には午後六時から店を開けているが、客が多くなり始めるのは、午後十時近くになってらしい。客層からすれば、団体というよりも単独の客が多いらしく、それは男であっても女であっても同じらしい。
 確かに新谷が行き始めた頃、早い時間が多かった。六時半頃に店に入って、九時過ぎには帰っていた。なかなか他の客と顔を合わせることもなかった。
 もちろん席はどこに座ってもいいはずだが、座る席は決めていた。いつもカウンターの端から三番目、最初に入って座った席である。もしその時の心境でまったく違う席になっていたら、そこが新谷の指定席になっていたに違いない。それだけにしばしの間、一方方向からしか店を眺めたことはなかった。
「思ったより狭く感じるね」
 何度目かに言った時に話したが、最初に感じた時より二度目、三度目とどんどん狭く感じられるようになっていたが、初めてマスターに店の広さを話した時から、もうそれ以上狭く感じることはなくなっていた。その時に感じた広さがまさしく本当の広さなのだろう。
 それからしばらく仕事が忙しくなって、店に顔を出すことはなくなった。久しぶりに出かけてみたのは、最後に行ってから約一月が経っていた。それまでは週に何度か顔を出していたにも関わらず、一月ぶりというと、完全に以前に感じた広さの感覚など、狂っているに違いなかった。
 店に入ると、
「やあ、久しぶりですね」
 相変わらずのマスターの声に、一月ぶりなどという感覚は薄れてしまい。まるで昨日も来ていたような錯覚を覚えた。
 いつもの席に座りまわりを見渡す。
――最後に感じた感覚だ――
 記憶とは一番近いところを思い出そうとするのが自然なのだろう。それとも、最初から損な気がしていたので、当たり前のように感じたのか、懐かしさなどという言葉はそこにはなかった。
 それからまた数日通うようになったが、少し時間をずらしてみることにした。
 一度最初に家に帰って、一段落をして出てきたこともあった。すると、いつも帰るくらいの時間に店につく。
――いつも帰っている時間だな――
 そんな意識を持っていて、店を出てくる自分を思い浮かべようとずっと思いながら歩いてきたにも関わらず、いざ入り口の近くまでくるとすっかり忘れてしまい、店の中に入って、
――しまった。何を考えていたんだ――
 と思っても後の祭りだった。
 四十歳を超えると、そんなことも多くなってくる。実際に何かをしようとずっと考えていてもいざとなると、すっかり忘れてしまっていて、その時間、
――一体何を考えていたんだ――
 と後になって思うのだ。
 だが、理由はおぼろげながらに分かってきていた。
 いつもいろいろなことを考えている新谷なので、実際に覚えておかなければならないと思っていたことを、その場になって忘れてしまうのは仕方のないことだ。
――若い頃はそんなこともなかったのに、歳なのかな――
 と感じている。しかし、それを感じること自体が歳であって、意識過剰が却っていざという時に思い出せない要素を司っているのかも知れない。
 店に入ると、すでに常連客は来ていた。いつも自分が帰る時にはすれ違いだったので、何となく違和感があった。だが、本当の違和感は、その人の座っている席がいつもの新谷の指定席であることだったのだ。
 新谷とは違い、背中だけで迫力を感じるような大柄な男性がそこに佇んでいた。背中を丸め、よく見ると背中には哀愁が漂っているように感じられたが、
――普段の自分も後ろから見れば同じように見えるかも知れない――
 と感じたほどだった。男はマスターと気さくに話をしている。時々しか話しかけない新谷とは違っていた。
 客は新谷をほとんど意識することなく話している。あれだけ他の客に会ってみたいと思っていたにも関わらず、自分から話しかけることができない新谷の心境を知ってか知らず課、指定席に座っている男はマスタと話を続けている。
 店内を見渡すと、
――いつもより広く感じるのは気のせいだろうか――
 空間の広さは感じたが、時間の長さに関しては曖昧だった。
 時計を見る限りなかなか時間が経ってくれず、イライラが募ってしまう自分を感じていたのだが、それもしばらくの間で、小一時間もすると、
――あっという間だったような気がする――
 と感じられたのだ。
 かくいう時間の感覚というのは不思議なもの。しかし、それも普段と違う席に座って、違った角度から見ることで、違った空間を感じてしまったからだ。時間と空間がどれほどの密接した関係か分からないが、本当に切っても切り離せないものだということを、その時に今さらながら感じていた。
 新谷はあまり呑める方ではない。だが、酒を呑んでいる空間の雰囲気が好きだった。
――空間と時間の共有を味わう――
 まさしくそんな気持ちだっただろうか。会社では空間というよりも時間が優先し、ともすれば自分の存在さえも消してしまわないといけないと感じるほどであった。それが仕事というものを辛く厳しいものにしていると感じていた。
――仕事をしている時の自分は本当の自分ではない――
 二十歳代の頃は、そんなことを考えたこともなかった。自分の実力の集大成が仕事の成果だと意気に感じていたものだ。
 その時には空間も感じていた。いや、空間などなくとも自分の実力が活かされればそれでよかった。時間すら自分で支配しているのではないかと思えるほどの自信を持っていたからだ。
 だが、それも第一線にいる間だけのことだった。三十歳を超えると、今度は中間管理職としての仕事が増えてくる。与えられた仕事を自分なりにこなすのではなく、人にやらせる仕事が増えてくるのだ。
――あまり順応性に長けているわけではない――
 と自分に感じたのはその時だった。
 仕事が変わっていくことに戸惑いを感じ、なかなか順応できない。
――管理職には向いていないんだ――
 と思うことで、次第に自分が空間を活かしきれていないことを感じるようになったのかも知れない。
 二十歳代のことを思い出していた。
 その頃は自分があまりアルコールを飲めないと分かっていたので、自分から店に行くことはしなかった。
 仕事を覚えてからしばらくは、仕事だけをしていれば楽しかったが、慣れてくると仕事をこなす時間も短くなり、残業もほとんどしなくなった。そんな時に先輩社員に連れていってもらったのが、スナックだったのだ。
 スナックというところに初めて入った時は、
――これは自分のいる空間ではない――
 と感じた。
 まず、部屋が暗いのにビックリした。カウンターの中には二、三人の女性。一人はママさんなのだろうが、後の二人は、アルバイトの女の子だった。
 男に酒を楽しく酒を飲ませるために使う会話も最初は、
――ありふれていてどこが楽しいんだ――
 と思ったものだ。
 だが、それも最初のうちだけだった。三人いる女性の中で、一人だけ
――どうにも雰囲気に馴染めていないんじゃないか――
 と感じた女性がいたが、その娘が気になり始めていたのだ。
 名前をれいこと言ったが、普通であればぎこちない彼女がもう少し悪い意味で目立ちそうに思えるところを、ママさんがうまくフォローしているのが見えていた。
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次