短編集98(過去作品)
「駄目じゃないの。れいこちゃん」
何かあるたびに、ママはれいこを嗜める。そのタイミングが実にいいのだ。れいこを気にしなければそのタイミングを感じることもないだろう。だが、一旦気になってしまうとママとれいこのタイミングの素晴らしさに閉口してしまうほどだった。
れいこは暗い部屋で見るとどんどん魅力的な女性に変わっていくように感じられた。
体型もスリムで、特に黒いワンピースなどを着ているのを見ると、妖艶な雰囲気が醸し出されてくるようだ。
肩から掛かった紐が取れかかったのを見た時、思わずドキドキしてしまった自分が恥ずかしかった。
暗いカウンターに当たっているスポットライトの中に入ると、今まで黒髪だと思っていた髪の毛が栗色に光って見えた。その時が一番れいこに「オンナ」を感じた時だったかも知れない。
そんなことを感じ始めた頃だっただろうか。れいこと表でバッタリを出会った。
ちょうど仕事が休みの日で、昼間することもなく、本屋に出かけた帰りのことだった。
普段から仕事人間の新谷にとって、何もすることのない休日というのは実に寂しいものだ。それでも二十歳代前半の充実した仕事をしている時は、休日はずっと家で寝ているだけでもよかった。充実した毎日だけに、休日は寝ているだけでもあっという間で、時間があっという間に過ぎるということが充実した気分になれている証拠だと認識していた。
だが、仕事に少し慣れてくると、時間が経つのが少し長く感じられるようになる。長く感じられるようになると、余計なことを考えてしまうのも人間としての性ではないだろうか。
――今のこの時間、仕事ばかりでいいのかな――
彼女の一人でもいればかなり違った気分になれるかも知れない。
そんなことを考えるまでもなく仕事をしてきた数年間、無駄に使ったとは思わないが、今からでも取り戻せるかも知れない。
休みの時の寂しさが募ってくるのはそんな時だった。女性といえば会社の事務員の女性しか意識していなかったが、それも同じ仕事をする仲間としてしか見ることができない。
あまり器用ではない新谷に、社内恋愛などできるはずもなく、社内恋愛というリスクを負ってまで好きになれそうな女性もいなかった。
当然仕事での今までに積み重ねてきた立場を崩すつもりはないし、変な噂を立てられたくもなかった。会社では静かにしていた。
そんな時、街で出会ったれいこは、いつもと雰囲気が違っていた。
最初に気付いたのはれいこだった。あまり視力のいい方ではない新谷だったが、熱い視線を感じたその先に見たことのない女性が立っている。
満面の笑みを浮かべているが、その顔は夕日を浴びて光っていた。
手にはスーパーで買い込んできたのだろうビニール袋がぶら下がっていて、家庭的な雰囲気が醸し出されていた。
それがれいこだと本当に気付かなかった。
「お忘れですか? 私、れいこです」
と本人に言われても最初は分からなかったくらいだ。ストレートに伸びた髪の毛が、夕日に照らされて栗色に光っているのを見た時、
「ああ、れいこさんですね」
と初めて話しかけることができた。目が悪いので、きっと眉を寄せてしかめ面をしていたはずなのに、そんな新谷に対してれいこは表情一つ変えなかった。それがれいこの魅力であった。
まだ暑い時期だったので、白いワンピースを着ていたが、店の中で見る黒いワンピースとは違い、痩せてはいるが随分と健康的に見えていた。
「持ちましょうか?」
「ありがとうございます」
それから少し公園のベンチで佇みながら他愛もない話に花を咲かせていたが、彼女が思ったより饒舌なのには驚いた。それよりも知識が豊富で、雑学的な話も結構していることが意外だった。
「私、短大を出ているんですけども、友達に本が好きな人が多かったんですよ。類は友を呼ぶっていうことかしら」
そういえば、お店で他の客から、
「れいこさんの趣味は?」
と聞かれた時に、
「読書です」
と答えていたのを思い出した。あまり饒舌ではない彼女なので、適当な受け答えのための趣味として、ありきたりな「読書」を挙げたに過ぎないと思っていたが、どうやらそれは間違いだったようだ。
――彼女の一言一言はあまり目立たないけど、言っていることは全部本当のことだったのかも知れない――
と思い、彼女を見つめていた。極度の緊張が店の中であって、その反動が今なのか、それとも、本当の彼女を目の当たりにしているのか、どちらにしても、れいこという女性のもう一つの一面に出会えたことは、新谷の人生の中で大きな影響を与えることになる。
――一体、どちらのれいこが好きなのだろう――
と考えたが、それこそ愚の骨頂だった。どちらも気になる。どちらも好きであっていいではないか。それが結論だった。
だが、妖艶なれいこを知った上で、清楚なれいこを見た瞬間に生まれた気持ちであることには違いなかった。
その後、れいことは付き合うようになった。
お互いに部屋に遊びに行くようになると、身体の関係になるまでには時間が掛からなかった。新谷としては普通だと思っていたが、れいこの方としては、焦れていたようだ。
積極的に身体を密着させ迫ってくる彼女に圧倒されながら、新谷は自分を必死に高めて行った。今まで自分からリードすることしかしたことがなく、考えられなかった新谷にとって、オンナの妖艶さを初めて知った瞬間であった。
――オンナとはかくも貪欲な生き物なんだ――
と感じた。
しかも、れいこがスナックの女性ということも新谷の頭を掠めていた。清楚なれいこを見て好きになったにもかかわらず、妖艶なれいこに身体が反応する。それが男としての性であるならば、決して悪いことであるはずはない。
新谷はしばし、れいこに溺れていた時期があった。半同棲のようになり、彼女が新谷の部屋に転がり込んできた。
普段のれいこは実に清楚である。料理は上手で、掃除、洗濯も好きなようだ。潔癖症なところがあり、少しいい加減な新谷にはちょうどよかった。
だが、それも長くは続かなかった。
付き合って半年もしないうちから、お互いにちょっとしたことから言い争いになり、喧嘩が絶えなくなる。
しかもお互いに今までいいところしか見てこなかったのは、悪いところを見ようとしなかったからで、綻びが見え始めると、今度は悪いところが目立ってくる。
れいこは金銭感覚に疎い方だった。潔癖症である彼女は、自分を綺麗に見せるためにはお金に糸目をつけない性格で、仲がよかった時でも、新谷に言わせると、
――そこまでして綺麗に見せなくとも――
と思っていたことが、喧嘩になると、
「そんなに綺麗にして、さては俺以外に他に男がいるんだ?」
と罵声を浴びせると、そこから先は売り言葉に買い言葉、今度はれいこが黙ってはいない。
「何よ、あなたなんて、せっかく私が片付けても、その端から散らかしていくじゃないの」
れいこが掃除をしてくれるので、仲がよかった時には目立たなかったが、新谷は生理整頓にはまったくの無頓着であった。
――これくらいならいいだろう――
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次