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短編集98(過去作品)

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北陸のオンナ



                北陸のオンナ


 新谷良治は、久しぶりの出張にワクワクしていた。
 一度結婚をしたが、別れてからの出張は最初はたまらなく辛かった。だが、時間が経つにつれ心の傷が癒えたのか、辛くなくなっていった。
 本社勤務になって久しく地方へ行っていなかったが、入社してすぐの二年ほど、地方勤務に勤しんでいた。
 二年間で四箇所の支店を経験した。全国に支店を持っている会社なので、
――一体これからどれだけの支店を経験させられれば気が済むんだ――
 とも感じた時期があったが、元々地方が嫌いではない新谷だったので、若い時期だったら、傍目から見られるほど辛くはなかった。
 会社に入って二年というと、最初の一年は仕事を覚えるのに大変で、彼女がほしいとまで思う余裕もなかった。特に世の中バブルの時期、会社自体も規模拡大を目論んでいて、いろいろな事業に手を出していた。覚えることもどんどん増えてくるのである。
 特に営業ともなると、ある程度浅く広くの知識が求められる。少なくとも顧客に質問されて答えられるだけの知識である。それだけでも大変だった。
 本を読んでマニュアルを作る仕事まで手伝わなければいけない時期があり、それも若い社員に課せられた仕事の一つだった。四十歳を超えた今から思い出すと、
――よくやれたものだ――
 と思うほど、仕事に集中していた。
 要領が分かってくると、それなりにうまくこなせるが、さすがに入社してすぐは、うまく段取りを整えることができずに苦労したものだ。今から思えば若き日の勲章でもあった。
 今までに行った地域は暖かいところが多かった。
 九州、四国の支店を点々とし、三年目には東京本社へと移った。広域営業としての本社勤務だったが、
――支店が懐かしいな――
 と感じる時期もあった。最前線で日々の仕事をこなすことが多い支店に比べて、本社業務は長期計画に則っての仕事が多い。けじめをつけにくいという点で、支店の方が自分に合っているのではないかと思っていたのだ。
 今回の出張は北陸、しかも温泉地が近いということもあり、支店長の好意もあってか、二日目からの宿は温泉郷の一角に取ってもらった。今回の出張は三泊四日の予定で組まれていて、最初の夜こそ、支店長の接待があったが、二日目以降はゆっくりと夜の時間を過ごすことができる。
 支店で車を借りて温泉までいけるのもありがたい。支店自体が都心にあるわけではないので、温泉街まではそれほど遠いものではなかった。
 東京ではすっかり春めいているのだが、さすが雪国、まだ雪が残っている。
 車を走らせていると、これほど幻想的なものとは思わなかったほど、飛んでくる雪が美しい。車に乗り込む時は、まさにしんしんと音もなく降っていた雪が、車の速度が上がるにしたがってフロントガラスに打ち付けては玉となって消えていく。
 運転していて打ち付ける幾多の雪の塊を、思わず避けてしまいたくなるほどなのは、表が真っ暗で、ヘッドライトに浮かび上がった部分しか見えてこないことが大きく影響しているに違いない。
 運転していて、恐怖が走る。どこを走っているのか分からなくなるほど真っ暗で、しかも目の前に打ち付ける雪から目が離せなくなっている。打ち付ける雪全体を見ているつもりでも、気がつけば一つ一つに集中しようとしている。ただでさえ全体が見渡せない中で一つに集中しようとすると、
――一体どこに向って走っているのだろう――
 という恐怖を呼ぶのだ。
 吹雪の中で幻影を見るという伝説は、昔からいろいろとある。雪女の話などは、その最たるものではないだろうか。日本には雪に対するものの考え方は神秘に満ちている。もっともこれは日本だけに限ったことではないだろうが、なぜなのかということを今さらながらに思い知らされた。
 どうやら回りは森になっているのだろう。見えるわけではないが、時間が経つにつれて冷静さを取り戻してきているように思った。ヘッドライトで確認できるのは、ガードレールと中央分離帯の白い線である。真っ暗な中に迫ってくる白い雪、さらに白い物体に白い線。白さだけは目立つようにできているのだ。
 どれほどの時間走ったのだろう。気がつけば宿の近くまで来ていた。恐怖を感じながらでもキチンと道を間違えずに来るところはさすがで、我ながら驚いていた。
 宿の近くには川が流れていて、赤い橋を渡った。橋の近くには、ちょっとした飲み屋街があるようで、食事の後にでも出かけてみようと思ったくらいだ。出張に限らず旅行に出れば、宿だけで我慢できずに表に繰り出したくなるのは、きっと貧乏性なのだろう。
 温泉は露天風呂に限る。
――食事の前に一風呂浴びて――
 これが旅の醍醐味だ。
 都会の支店に出張に行って、ビジネスホテルに泊まるのとまた違ったおもむきがある。ビジネスホテルでは泊まるだけが目的で、どうしても近くの店に繰り出さなくてはならない。なぜなら夕食がついていないからだ。
 チェックイン前に食事を済ませることもあるが、仕事で遅くなると、先にチェックインを済ませることが多い。そして宿の近くを散策するのだが、場所によってまちまちで、賑やかな繁華街のところもあれば、飲み屋が数軒点在しているだけのところもある。
 どちらがいいと一概には言えないが、散策することは嫌いではないので、結構時間を掛けて散策することもある。あまり賑やかな繁華街だと目移りしてなかなか店を決められないという意味では、中途半端な都会の方が落ち着いていいのかも知れない。ご当地の雰囲気を味わうのも乙なものである。
 車から表に出ると、思ったよりも寒さを感じなかった。運転中にフロントガラスに当たっては消えていた雪も次第に小降りになってくるようだ。
 風はほとんど吹いていない。舞っている粉雪が身体に当たっても冷たいとは感じなかった。
 雪が痛いくらいに降っていたのを思い出していた。
 あれは中学の時だっただろうか。あまり雪の降らない地域に住んでいた新谷だったが、年に一度か二度くらいは、雪が積もることがあった。積もる時というのは意外と暖かく感じるもので、雪というのは風のない時に降るものだと思っていたくらいだ。
 だが、昼から降っていた雨が夜になって雪に変わった時があった。その時は風が強く、まるで吹雪のように、傘を差していてもあまり効果のないほどで、却って傘が駄目になってしまうのではないかと思えたほどだ。
 あれは雪というよりもあられのようなものだったのかも知れない。手袋をしていたのだが、次第に傘を持つ指先に痺れを感じ、気がつけば感覚がなくなっていた。
 大通りに差し掛かった時に見える車のヘッドライトとビルから見えるネオンサインのカラフルさ、今までに何度も通っていた道のはずなのに、
――これほど綺麗なところだったんだ――
 と感じたほどだ。
 光に瞬きを感じる。濡れそぼったアスファルトに光るネオンサインが、そのまま瞬いている。
 不思議なことに、ネオンサインやヘッドライトのカラフルな世界に目が奪われると、それまでの吹雪が消えてしまった。
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次