短編集98(過去作品)
中学時代には結局彼女と呼べる人は現れなかったが、高校に入るとクラスメートと付き合い始めた。お互いに初恋だった。
名前を皐月という。
彼女にとっては初恋らしく、和彦自身も、
「初恋だよ」
と話した。頭の中でその時に中学二年生の時、最初に女性を感じたクラスメートと、奈緒の存在がダブって現れたのを思い出した。
三人ともまったく違った雰囲気を持っている。いつもニコヤカで、生理の時に女性を感じた中学時代のクラスメート、何も自分から話そうとしないが、二人だけでいる時、ずっと目を見つめてくれている皐月。まるで、すべてお見通しだといわんばかりの目が怖く感じることもある。
そして、その二人の中間とでもいうべきか、どこか二重人格的な雰囲気を感じる奈緒。まさしく、三人三様である。
皐月に感じた思いは、中学時代のクラスメートに女性というものを感じた延長線上にある。
「彼女がほしいという思いは強いけど、焦っているわけじゃないんだ」
高校に入って、友達と女性についての話をした時に出てきた言葉だったが、その言葉にウソはなかった。
「こんにちは。はじめまして」
という言葉が口から出てくるまでにどれほどの時間を要したのか、自分でも覚えていない。すぐそばにいる人に声を掛けられない自分に感じる苛立ちなど、久しぶりだった。
最近の和彦は気さくである。初めて入った店でも、すぐにマスターや常連の人と仲良くなり、
「最初から常連みたいだね」
と常連さんから言われて、やっと気がつき、今さらながら照れてしまうほど、馴染むのに違和感がない。
もちろん、入る店を選ぶ時、最初から違和感のないような店を選んでいるからだろう。無意識に選べるようになっているところが、自分でも驚いている。
――元々がこんな性格だったんだろうな――
自分の性格を形成する時期である小学生時代に苛められっこだった和彦にとって自覚には及ばなかったが、今では人から言われてやっと気づき、照れてしまうという行動に出てしまう。苛められっこであっても、それなりに自分の中でしっかりした性格を持っていたに違いない。
特に人と同じことをするのが嫌だと思っていることから、知らず知らずのうちに、まわりを避けていたために、苛められる結果になったのかも知れない。せっかく仲間に入れてやろうと思っているところを、おせっかいに思えるような態度を取ってしまっていれば、不快な思いを与えるのも当たり前である。
「はじめまして」
と言った時に見せたなっちゃんの表情、まるで瞳の奥を見られているような気分にさせられ、ゾクッとしてしまった。
その目には集中力を感じる。以前にも感じた集中力だった。
苛められっこだった和彦は、人の視線を浴びるのが怖かった。
――また苛められるんじゃないか――
という思いを一番視線に感じたからだ。
視線に痛みを感じることはなかった。気にはなるが、それは次に起こる苛めに対しての恐ろしさを感じるからだ。本当に視線で感じた痛みというのは、その後に実際の痛みを感じるものではない。それは痛みというよりも、快感に繋がるものだったのだ。
痛みが快感に変わる時、それは苛めからの派生なのかも知れない。
奈緒から受けた視線に痛みを感じていた。苛めの時の視線とは違うものなのに、どうしてなのか分からなかった。
今から思えば哀れみの視線だったのかも知れない。
哀れみの視線は冷たいものだ。きっと和彦は助けを求めるような視線を向けていたに違いない。それに対して返してくる視線が哀れみに溢れていると、まったく予期せぬものであって、予期せぬ視線だからこそ痛みを伴うものだと思っていた。
しかし、それが違うものであることを、バー「フォルテシモ」でなっちゃんから浴びた視線で今さらながら思い知らされた。
以前にも同じように感じたことがあったはずなのだが、思い出せない。
――やはりなっちゃんは、奈緒なのだろうか――
聞いてみたい気持ちが喉の奥からこみ上げてくる。口から出せればどれほどの快感なのか想像してみた。
「喉って、結構快感があるのかも知れないね」
これは女性の話だった。
「それはどういうこと?」
「喉の奥って、指を突っ込んだりすると咽るでしょう? これって快感の裏返しじゃないのかしら?」
「そうかも知れませんね。胃カメラを飲む時など、嘔吐してしまいそうになるっていいますものね」
「だからかしら、言いたいことを喉の奥に溜めておくと気持ち悪いじゃないですか。でもそれを言ってしまう時って快感を覚えるんですよね」
「悪いことをしているという罪悪感と、バレないかというドキドキした気持ちもあるからなのでしょうね」
「言葉を発する時は、一旦喉の奥で吟味しなさいってことなのだと思うようにしています」
「それはいいことだ。ポジティブに考えるって大切なことですよね」
「ええ」
そんな会話だったように思う。ちなみにその時に会話した女性からの視線に痛さはまったく感じなかった。どんな女性だったかも思い出せないほどだ。
今までに視線で痛みを感じたのは、奈緒だけだった。小学生の頃の奈緒、そして、中学生になってからの奈緒の表情はしっかり頭の中に記憶されているはずなのに、なっちゃんを見た瞬間、その記憶が飛んでしまった。
――なっちゃんは、奈緒なんだ――
と確信に近いものを感じた。
店に入ってきてからすぐに感じたもので、彼女を見たから小学生時代の自分を思い出したのか、それとも、小学生時代の自分を思い出すことで、なっちゃんの中に奈緒を見たのか分からない。
人と同じことをするのが嫌な性格であることを、店に入って最初に感じたのには違いない。
痛い視線を感じている間、なっちゃんの口から言葉は出てこない。それがどれほどの時間だったか分からないが、意外とあっという間だった。
思考回路がものすごいスピードで回転しているようだ。小学生時代の自分に気持ちが遡るのだから、簡単なことではない。すぐに思い出せているようで、きっとそこにはきっかけがなければ思い出せないものがあるはずだ。和彦は静かにそう考えていた。
「はじめまして。でも、何だか以前からお知り合いだったようにも思えるんですよ」
彼女のセリフに確信があったかどうか疑問であるが、その時の表情に感じたものは安心感だった。
なっちゃんがふとマスターに目配せしたのに気付いた。マスターは素知らぬ振りで、グラスを拭いている。その表情を見るなり、なっちゃんの目が妖艶に光った。頬を膨らませた表情は、まるで子供が親に不満をぶつけている時のようだ。
マスターはなっちゃんが入ってきてから、少し気まずい表情になっていた。バツの悪そうな顔をしたかと思うと、下を向いたまま起こそうとしない。
二人の間に客とマスター以上のものがあるとすれば、和彦は邪魔者ではあるまいか。かといって、ここで席を立つのも間が悪い。タイミングが必要だ。
だが、こういう時のタイミングを掴むのは和彦にとって一番苦手なことだった。会話をしようにも言葉が急に出てこなくなる。何か言わないといけないと思いながら何も言えなくなってしまった。
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次