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短編集98(過去作品)

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 和彦が苛められていた理由について、友達は何も言わなかったが、きっと分かっていただろう。苛めをしていたのは一部の人間だけだったが、和彦の目には全員が敵に見えた。黙って見ている連中の冷たい目は、ある意味いじめっ子たちよりも怖かった。
 その証拠に苛めがなくなっても、誰も相手をしてくれない。自分たちとは違う人間だという目で見ているからに違いない。そんな中で中学三年間で少しずつ友達ができていったが、彼らは皆自分の個性が表に出ているくせに、決して自分から出しているものではない。醸し出されたものなのだ。
「君も同じような性格だね」
 個性の話をした時に、友達から言われた。
「そうだね。他の人と同じことをしたくないというのが本音だね」
 その時、初めて自分の本音を他人に話した。それを聞いた友達の満足そうな顔、それがすべてを物語っているように思えた。
「私は中学時代から、音楽ばかりしていましてね」
 とマスターが話してくれた。
 マスターは年齢的に三十代前半くらいだろうか。和彦と同じくらいか少し年上か、最初はそう感じていたが、思ったよりも歳だったりするかも知れない。だが、話していて音楽の話題になってくると、和彦にとっては懐かしいと思える音楽を、マスターも懐かしがっていることから、同じくらいの年代なのだろう。
 バンドを組んで、大学時代などはバーを回っていたりしたらしい。
「結局サラリーマンになったんだけど、バーの雰囲気が忘れられなくてね。気がついたら店を開いていましたよ」
 簡単に、
「気がついたら」
 などという言葉が出てくるところがすごい。そう簡単に店など開けるわけはないだろう。偶然うまい話が転がっていたのかも知れないが、偶然を掴むのもその人の運。運も実力のうちというではないか。きっと何かを持った人なのだろう。
 マスターは見れば見るほど飄々としている。一見頼りなくも見えるが、掴みどころのないところなど、憎いくらいだ。どこか寂しげで、それが女性の母性本能をくすぐっていそうにも思える。
 目の前に出されたカクテルをゆっくりと口に運んでいる。
 そんな自分の姿をもう一人の自分が後ろから見ている。そんな風に感じていたい気がしていた。
 こじんまりとした店内に二人だけの空間、ちょうど暖かさを感じられてホッとしていた。目の前に出された料理もおいしい。店内にはブラックペパーの香ばしい香りが充満している。
――居酒屋や、スナックのような喧騒とした雰囲気が嫌になるくらいだ――
 それはそれでいいのかも知れないが、その時は静寂を求めていた。静寂に恋していたというとキザだろうか。
 クラシックはいつの間にか重低音から、静かなピアノ音楽へと変わっていた。ピアノ音楽は一変して高いトーンで奏でられている。先ほどの重低音に部屋の暗さを感じていたとすれば、慣れてきた目が照明の明るさを感じさせ、ちょうど明るい音楽は乾いた軽い空気を連想させる。まるで和彦の気持ちを分かっているかのように演奏されていた。
 二杯目のカクテルを注文した。
 呑みやすさも手伝ってか、一杯目はあっという間に飲み干した。二杯目のカクテルは本格的で、目の前に用意した小さなまな板にグレープフルーツを置くと、包丁を取り出して真っ二つに切った。
 途端に店内に柑橘系の香りが漂う。しかもレモンのような渋さだけではなく甘さも含んでいる。グレープフルーツの赤みは甘みを思わせ、搾り機で押し潰すようにすると、ますます香りと色を満喫できる。
 シェーカーにグレープフルーツ、お酒、そして軽く塩を振って、それに蓋をしたかと思うと、後はバーテンダーの本領発揮、目の前で思い切りシェークしていた。
 マスターのその時の顔が実に楽しそうで、サラリーマンを辞めてまでバーを経営する楽しみを垣間見たような気がして嬉しかった。
「シェークしていると、昔やっていたバンドのリズムを思い出すんだよ」
 確かにそうだろう。それだけを聞いてマスターの気持ちが分かるのも、笑顔の意味が照明されたといえるだろう。
 香りの残ったままのカクテルをすぐに口に運んだ。一口だけ口に含んだだけだが、香りが口いっぱいに広がる気がして、それだけでもグレープフルーツを一個丸かじりしたような気分になった。
 一気に渋さを感じたが、徐々に甘みが増してくる。塩味が効いていて、アルコールを感じさせない。ちょうどつまみとして頼んだ豚バラとマッチして、しばし味覚に集中している自分に気がついた。
 まわりの静寂さが時間とともに重さを感じさせるようになっていた。マスターとの会話も一段落、マスターもウイスキーを半分グラスに注ぎ、適当に飲みながら音楽を聴いている。それほど広くない空間を一番広いと感じていた時間だったのかも知れない。
 だが、そんな時間もそれほど長くは続かなかった。入り口の扉が開く音が聞こえたからだ。
 一瞬、静寂を破った入り口を、恨めしそうに眺めた和彦だったが、入り口に姿を現したのが女性だったことで、すぐにニコリとした顔になったのも現金なものである。
 きっと無意識だっただろう。もしそこに現れたのが男だったら、恨めしそうな顔は続いたかも知れない。
――だけど、僕ならすぐにニコヤカな顔に変わるだろうな――
 男と女とではその間隔に違いこそあれ、それでも人が来ればホッとするだろう。静寂が続いてほしいと思う反面、こみ上げてくる寂しさに対し、言い知れぬ寒さのようなものを感じるからに違いない。
「こんばんは」
 明らかに初めての客ではない。マスターもニコヤカな顔で迎えたが、じっと見つめていたわけではない。
 もし初めての客であれば、先ほど和彦が入ってきた時のように席に着くまで視線を離さないはずだ。見ていないような素振りをしながらでも、ずっと目で追っているだろう。
 だが、彼女を入り口で見止めてからは、視線を向けることはない。きっとどこに座るかも分かっているからだ。
 彼女は迷うことなくカウンターの端に座った。少し和彦からは距離があるが、湾曲しているカウンターなので、その方が顔がよく見えるというものである。
 それほど視力の悪くない和彦だったが、さすがに少し酔ってきているせいか、それとも目が慣れてきているとはいえ、店内がくらいせいか、じっくりと目を見開かないと、顔がハッキリと見えなかった。
――まずいかな――
 自分がどんな顔をして彼女を見ているか、雰囲気を想像していた和彦は感じた。
 だが、そんなことはおかまいなしに、彼女はカウンター内のマスターに視線を向けている。少し寂しさを感じたが、それも常連さんであれば仕方のないことだろう。
 カウンターの前にあるキャンドルに灯しが点けられた。客が来るたびにマスターがつけている。粋な計らいに思えた。
「なっちゃん、今日は何にする?」
「そうね。まずはいつものやつからお願い」
 やはり常連である。ツーと言えばカー、勝手知ったる仲なのだろう。一瞬蚊帳の外に置かれた気がして軽い嫉妬を感じたが、それも酔いからくるものだった。
 なっちゃんと呼ばれたその女性。ずっとニコニコしている。
――何がそんなに楽しいのだろう――
 和彦は理解に苦しんだ。
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次