短編集98(過去作品)
――席を指定されると今までならカチンと来ていたのに――
レストランや、食事処などで席を指定されると、いつもなら踵を返して店を後にしていた。人から指示されてその通りにする自分が嫌だったのだ。相手はもちろん商売だと分かっているのだが、それだけに客に対しての思いやりを求めてしまう。それのどこが悪いというのだろう。それが和彦の考えだった。
――今日は素直だな――
初めて来た店なので、素直なのは当たり前かも知れない。まだ慣れていない状態で素直でなければどこまで増長するか、自分でも怖くなる。
マスターの手渡しのお絞りで、手を拭くと、そのまま顔も拭いた。
――まずかったかな――
と一瞬感じたが、雨も降っていたことだし、仕方のないことだろう。普通なら和彦はお絞りで顔を拭いたりなどしない。無意識の行動だった。
想像していたよりも薄暗かった。暗い表からやってきたのだから、もう少し店内が明るく感じられると思ったが、カウンターは特に暗い。どうしてなのだろう?
その理由はすぐに分かった。目の前に小さな箱が置いてあって、それがカウンターのところどころに置かれている。小さな箱は光っていて紐のようなものがついているが、マスターがおもむろにマッチを擦ったのを見ると、それが何であるかすぐに分かった。
――キャンドルなんだ――
箱型のキャンドルとは洒落ている。これでは店内が暗い方が綺麗に写るというものだ。これもマスターの粋な演出なのだろう。
表の雨は冷たい雨ではなかった。冬に湿気を帯びた重たい空気を感じると雨が降るものなのだろうが、それよりもセメントの匂いを嗅いだ瞬間から、雨が降ることは分かっていたのかも知れない。
確かに酔いのせいもあっただろう。嗅覚が敏感になるのは酔っている証拠だからである。しかし、生暖かさが身体に纏わりついてくる感覚は間違いなく雨の兆候であった。
店の中は雨が降っていることを感じさせなかった。薄暗さと暖かさが心地よい。店内に流れているのはクラシック。決して演歌などではない。
カウンターの隅にはパソコンが置かれていて、カウンターの両端にあるスピーカーから重低音が響いているのだ。
「パソコンに音楽をダウンロードして、ランダムに流すのが私の趣味なんですよ。これなら好きな曲を適当な時間にシャッフルして聴けるからいいでしょう」
「そうですね。有線なら聴きたくない曲も流れてきますからね」
これもバーの醍醐味だ。マスターが自分の趣味趣向でいろいろできる。店それぞれに個性があると言ってもよい。それだけに一見さんも多いかも知れないが、常連が多くなるのも当然というものだ。
お絞りで手を拭いて、顔まで拭くと、酔いが冷めてくるようだった。目の前に置かれたメニューを手にとって見ると、そこには思ったよりたくさんの料理が並んでいた。
スナックのイメージがあり、ちょっとしたつまみ程度のものしかないものだと思っていたが、大きな間違いだった。
「お客さん、バーは初めてですか?」
「よく分かりますね」
「ええ、メニューを見ている顔を見ると分かりますよ。スナックのイメージがあったんでしょう?」
「そうですね。同じようにカウンターがあって、テーブルが少しあって、ただ、ママではなくマスターがいるだけって感じですね」
「スナックとは赴きが違いますからね。料理も豊富ですよ」
視線を落としたその先にあるメニューは、なるほどリーズナブルで見ただけでおいしそうだ。居酒屋で少しは食べてきたはずなのにまたお腹が減ってきたのは、店の赴きの違いを感じているからだろう。
二、三品の料理を頼み、カクテルも弱いものを適当に頼んだ。カウンターの手前に両肘をついて身体を委ねながらまわりを見渡していると、最初に入ってきた時に感じたよりも、少し広く感じられた。きっと立って見ていたからで、座って見ると広く感じるからだろう。
薄暗さにも慣れてきた。
目の前にあるショーケースにはいろいろなカクテルを作るためのグラスが置かれている。逆三角形のものや、ワイングラスや、普通のコップも置いてあるが、それぞれ大きさが違って、見ていて楽しい。色のついた照明が当たっていて、カラフルに見せるのも、マスターの粋な計らいに違いない。
店に入ってくる時には気付かなかったが、メニューには店の名前が載っていた。
「バー・フォルテシモ」
音楽の記号がいくつか書かれている。
音楽には疎い和彦だが、曲を聴くのは大好きだ。音楽の記号などチンプンカンプンなくせに、クラシックやジャズを聴いている。それはきっと自分がミーハーだと思われたくないからだ。
この店に立ち寄った時、何となく安心したのは、雨宿りができたからだけではない。表にあった白い敷物に、音楽の記号が書かれているのを見たからだ。無意識な安心感だったように思える。今メニューを見て、そのことを思い出していた。
和彦は、他の人と一緒だと思われることを極端に嫌う。それは小学生の頃から、いや、物心がついた頃からといっても過言ではないだろう。
マスターと少し世間話を始めて、久しぶりに友達以外の人との会話をしていて思い出した。
小学生時代というと和彦にとっては暗い時代だった。いわゆる苛められっこで、まわりから謂れのない苛めと受けていた。
今から思えば、
――本当に謂れのないものなのだろうか――
と感じるが、原因は必ずあったはずだ。
「どうして、僕を苛めるの?」
といじめっ子に聞いたが、
「むかつくからだ」
と言われるだけで、それ以上は何も言わなかった。聞いてしまったことで逆上されて、さらなる苛めを受けたので、それ以上聞かなかったが、何とも理不尽ではないか。
しかし大人になってみればそれも分からなくもない。
苛める側も、ハッキリとした理由もなく苛立ちを感じる人がいる。苛立ちを感じたからと言って苛めるということは確かに理不尽だが、それをもし苛める側が分かっていたとすれば、苛めの理由を聞かれて逆上するのも無理のないことかも知れない。言葉では言い表せない苛立ちが和彦にはあったのだろう。
苛められたのは小学生時代だけだった。中学に入るとピタッと苛めは止まり、逆に相手にされなくなった。だが、それは和彦には願ったり叶ったりでもあった。
――僕は他の人と同じことをするのが一番嫌いなんだ――
ということに気付いたのが、ちょうど中学に入った頃だった。
――中学に入ったから苛められなくなったのではない。他の人と同じことをするのが嫌な性格だということに気付いたから苛めを受けなくなったんだ――
当たらずとも遠からじであろう。
「俺はミーハーが嫌いでな」
中学に入って初めてできた友達が話していた。
彼と友達になったきっかけは覚えていない。確か彼が話しかけてきたように思う。人のことやまわりを見る余裕もないほど苛められていた小学生時代。苛めを受けたことで、まわりを見る目を忘れていた。
「皆でつるむなんて面白くもなんともない」
それが周りへの目であった。
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次