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短編集98(過去作品)

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苛虐



                苛虐


 偶然だったのだろうか、その日の和彦は精神的にナイーブになっていたのは事実だった。居酒屋を出てからちょうど駅に向かう途中から雨が降り出した。傘は持っているが面倒くさがりな和彦は、傘を差すのも億劫だった。目の前に駅は見えていたが、それよりも雨宿りに寄ったビルの案内に、バーがあるのが気になったのだ。
 数ヶ月前までは仕事が忙しく、プロジェクトに参加していた関係もあって、その日の仕事の終了が深夜に及ぶこともあったが、プロジェクトも無事に終了し、今では定時を少し回ったくらいで退社できる。
 定時が午後六時ということで、駅までそれほど遠くないこともあり、帰りつくのが午後八時頃で、
――中途半端な時間だな――
 と考えていた。
 そのうちに会社の同僚と居酒屋などで呑んで帰る日々が続いていたが、寒くなってくるとビールよりも日本酒を好むようになり、食べ物もおでんや煮込み、鍋物へと変わっていった。
「冬は食べ物がおいしいからいいよね」
 と言っていた同僚だったが、そんな話をしているうちに転勤になってしまった。
「こんな時期に珍しいな」
「いや、向こうでちょうど欠員が出たらしいんだ。まあ、望まれて行くんだから、いい方に考えるよ」
 彼のそんなポジティブな考えが好きである。確かにこの時期の転勤は珍しく、それだけに望まれていると考える方が普通かも知れない。部署での送別会も催されたが、あまり盛り上がることもなかった。転勤の送別会など、そんなものかも知れない。
 その日は二人だけの送別会だった。次の日に引越し準備で忙しいこともあって、二時間ほど居酒屋で杯を重ねる程度のものだったが、お互いに饒舌だった。
 あまり呑んでいたわけではないが、気持ち的には盛り上がっていて、二時間ほどが、倍近くの時間に感じられるほど充実した時間を過ごせた。
 話の内容はあまり覚えていないが、最初に話していた内容に途中から戻っていた。
「それまでの時間は何だったんだろうな」
 などといって、お互いに笑っていたのを覚えている。
 初めて酒以外に酔いがあるということに気付いたような気がした。話をしていて興奮してくると、指先の感覚が痺れてくる。カサカサになって乾燥しているのを感じると、
――これも酔いの一つなんだな――
 と感じられた。
 ろれつが回らず、指の感覚が麻痺してくるほど呑んだこともないくせに、会話で我を忘れるほど話が弾むのは、やはり気心知れた相手だからであろう。
 特にしばらく一緒に呑めないと思うとひとしおである。一通り話しが一巡すると、興奮が少しずつ収まってきた。元々冷静に話すことが多く、ほとんどが聞き役に徹していた和彦には珍しいことだった。
 呑んでいないつもりでも、表に出ると、鼻腔が敏感になっていた。
――セメントの匂いを感じるな――
 と感じた時は、酔いが回っている時である。階段を下りている時も、いつもよりも下の歩道が小さく見えたりしたものだ。
 タクシーで帰るという同僚を大通りまで見送り、しばらくタクシーが見えなくなるまで見つめていた。ずっと会えなくなるわけでもないのに、走り去るタクシーを目で追いかけるなど、その日は酔いもあってか、少し精神的にナーバスになっていたのかも知れない。
 すっかり夜の帳の下りた大通りには、車のヘッドライトとテールランプの色とが交錯している。少しだけ黄色身を帯びた白と赤の交差に、ビルのネオンサインが眩しく、夜の街が照明で演出されていることが分かってくる。いつもよりも煌びやかな感じを受けるのは錯覚だろうか。
 次第に大きく見えてくるヘッドライトとテールランプ、赤と白のコントラストが美しい。
――最近、視力が落ちたな――
 と感じ始めていたが、間違いではないようだ。コントラストは、視力の悪さの影響をまともに受けているせいなのだ。
 ゆっくりと歩きながら駅へと向かう。前からテレビカメラででも映していれば、さながら二時間ドラマのラストシーンにでもなりそうな気分で歩いていると、思わずコートに手を入れてポーズを作ってしまう。時々そんな気分になるのは、小さい頃からテレビの見すぎが影響しているからだろう。
 小さい頃はテレビっ子だった。家にいる頃はほとんどテレビを見ていた。
 子供らしいアニメから、大人のドラマまで、幅広く見ていたが、さすがにハッキリと覚えているのはアニメの方である。きっと再放送まで何度も見たからに違いない。
 意気が上がってくるのを感じながら前を見ていると、息が白くなっているのを感じる。――それほど寒いわけではないのにな――
 と思いながら歩いていると、今度は、空気の重たさを感じてきた。空気の重たさを感じると、またしても、さきほど感じたセメントの匂いを強く感じるようになり、それに混じって車が吐き出す排気ガスの匂いを感じるようになると、もういけない。
――これは気持ち悪い――
 咳が出てくるのを抑えることができない。それに伴ってくしゃみまで出てくる。こんな時は決まって空気に湿気を感じる時だった。
――雨が降るのかな――
 と感じながら歩いていたが、その予感はすぐに的中した。ポツンと一粒、鼻の頭に当たったかと思うと、次からは大粒の雨が降ってきた。
「こりゃ、まずい」
 思わず叫ぶと、急いで電車の高架下まで駆け出した。幸いにも高架下まではそれほど距離もなく、傘を差すまではなかったのでありがたかったが、ここから駅まで行こうと思うと、どうしても途中で傘を差さなければならないところに来てしまう。
――そういえば、途中にバーがあったな――
 なるべく傘を使いたくないと思っていた和彦は、バーの存在を思い出した自分に拍手を送りたい気分だった。
――いずれ立ち寄ってみたい――
 と元々考えていたこともあって、ちょうどいい機会でもあったのだ。
 そのバーは雑居ビルの二階に位置していた。
 スナックなどの看板が目立つその雑居ビルの中に一つポツンとあるため、看板は地味なものだったが、それでもバーを気にしてみていれば、実に洒落た看板である。
 白を基調としていて、そこに黒で音符の文字が描かれている。他のスナックなどに比べれば実に地味で、
――誰も見ないかも知れないな――
 とこじんまりとした静かなスナックを想像していた。
 さすがにその日は雨が降っていたので、看板を意識することもなく、一目散に二階まで上がり、入り口前で髪の毛など濡れている部分をハンカチで水滴を落とし、中へと入った・
「いらっしゃいませ」
 マスターが一人でグラスを拭いている。
 傘を傘立てに立てて、店内を見渡せるようになったのは、すぐだったように感じていたが、意外と少しだけ間があったのではないだろうか。
 息切れをしていたのをマスターも分かってか、すぐに話しかけては来なかった。相変わらずグラスを拭いているのを見ながら、和彦は自分の呼吸を整えていた。
「どうぞ、こちらに」
 客はまだ一人もいない状態の店内で、マスターはカウンターの中央へと誘ってくれる。素直にマスターの指示通りカウンターの中央へと歩み寄ったが、今までの和彦からは信じられないほどの素直さに自分でビックリしていた。
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次